もなく、隅の卓子につくねんと坐って、ウイスキーやコニャックの杯をなめるのだった。サチ子が時々相手になりに来たが、別に話もなく、冗談口も少いので、すぐに行ってしまった。マダムが時折、無関心らしい視線を送ってくれた。
土地の商家の若い人たちも、屡々やって来たが、彼に対してはもう素知らぬふりで、会釈さえしなかった。そして彼の存在を全く無視したような振舞で、他に客がないと、マダムをつかまえて下卑な冗談口を云いあったり、植木鉢をわきに片附けて、ジャズで踊ったりするのだった。それが実は、彼の存在を意識しての上でだということが、眼付や素振で分るので、何かしらそこに陰険な狡猾なものが加わってくるのだった。そればかりでなく、若旦那風の角帯の男は、土地の安っぽい芸妓を二三人ひっぱってきて、のんだりふざけたりした揚句、君たちが奢る約束じゃなかったかと云って金を出そうとしないので、芸妓たちはきゃっきゃっと騒いでから、ああこれでいいわけねと、その一人が紙入から名刺を[#「名刺」は底本では「名剌」]一つ取出した。どうして手に入れたか、依田賢造の名刺で[#「名刺で」は底本では「名剌で」]、それをマダムに差出して、お勘定はこちらに……と、すまして、どやどやと、出て行ってしまったのである。マダムは顔色さえ変えず、いつものように、知的な顔に微笑を浮べて、そんなのをも迎え送るのだった。その虚心平気な態度を、岸本は感歎の念でまた見直すのだった。
ところが、或る晩、岸本が少々酔って、帰りかけると、扉の外に「若禿」がよっかかるようにして立っていた。童顔の頭が禿げかかって近眼鏡をかけてる、一寸胡散にも利口にも見える背広の中年の男で、いつも一人でやってくる常連のうちだったが、それが、先程からそこに立っていた様子をごまかそうともせず、ほほう……と岸本の顔を眺めて、丁度いいところで出逢ったから、一緒につきあってくれと、もう既に酒くさい息を吐きながら、岸本の肩をとらえて、バーの中へでなく、ほかの方へ引張っていくのだった。そして近くのおでん屋へ引張りこんで、一体あんたはマダムに惚れてるのかどうかと、突然尋ねだしたのである。岸本が言下に強く否定すると、彼は握手を求めて、あんたは正直だから信用してあげると、他愛なく笑ってしまうのだったが、暫くすると、ほんとに惚れていないのかと、またくり返すのだった。そして、僕はあんたの云うことを信ずる、「ドラ鈴」とマダムと関係のないことも信ずると、一人で饒舌りちらしてから、あんたはほんとに惚れていないんだねと、またくり返すのである。その度に何度も握手を求めて、それから彼を引張って、バー・アサヒへ逆戻りしてしまった。岸本は酔ってもいたが、何かしら引きずられる真剣なものを彼のうちに感じて、云われる通りに引廻されてしまったのであった。
バーの中には、土地の若い人たちと、他に二人会社員がいた。「若禿」はまんなかの卓子に坐って、アサヒ・カクテルを三つ、三つだと念を押して、それからふと立上って、蓄音器のところへ行き、しきりにレコードをしらべて、一枚の夜想曲をかけさせ、このバー独特とかいうすっきりしたカクテルが来ると、マダムを呼びよせ、岸本とマダムの手に一杯ずつ持たせて、立上ったのである。
「ええ……小生は、マダムとドラ……依田氏との間の、純潔を信ずるものであります。そしてここに、お目附役の岸本君の立合のもとに、マダムへ結婚を申込むの光栄を有するのであります。」
そしてぐっと一息に杯を干して、尻もちをつくように椅子に腰を落して、きょとんとしてるのであった。とり残された岸本とマダムとは、杯を手にしたまま眼を見合ったが、その時、一寸緊張したマダムの顔が、花弁のように美しく岸本の眼に映った。岸本は一息に杯を干したが、マダムは唇もつけないで、卓子の上に杯を戻して、もういたずらな笑みを含んだ眼付となっていた。
「まあ。」と卓子をとんと叩いて「ばかばかしいわね。何を二人で、たくらんでいらしたの。」
それが「若禿」に衝動を与えたらしかった。彼はひょいと頭をあげて、マダムが立去ってゆくのには眼もとめずに、岸本の顔をまじまじと見ていたが、長い手を延して、岸本の手をとって打振りながら、岸本へ向ってではあるが、酔っ払いの独語の調子で饒舌りだすのだった。
「僕は……ねえ君、僕は、たくらみだの、邪推だの、そんなことが、第一性に合わないんだ。だから、君の言葉を信ずる。愛すべき青年よ……愛すべき……彼女よ、マダムよ。彼女は純潔なり。ドラ鈴と、関係などあってたまるものか、僕が保証する。マダムは生活のために奮闘しているんだ。ブールジョア共には分らない。マダムは可愛いい娘のために働いているんだ。依田氏がそれを預って、育てていてやればこそ、マダムは後顧の憂いなく、こうして奮闘しているんだ。ねえ
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