せいでしょう。住所をきくとただ、『田原の旦那の所へ行くんだ。』と答えるきりです。仕方がないから、お宅へ送ってやると云うと黙って立ち上って歩き出しました。あなたの御存じの男ですか。」
 田原さんは玄関にぼんやり屈んでいる男――徳蔵の上に、じっと眼を定めた。細い縞の浴衣が埃にまみれている。はだけた胸からは黒い胸毛が見えて、大きく喘ぐように息をしていた。
「ええ、」と田原さんは答えた。「もと、家に使っていた男です。決して怪しい者ではありませんから、どうか私に任しておいて下されば仕合せですが。」
 それで巡査はほっと安心したらしく、ポケットから手帳を取り出して、一応田原さんの名前とそれから徳蔵の住所氏名とを書き留めた。そして、「お邪魔でした。」と云い残して出て行った。
 田原さんは暫くつっ立ったまま徳蔵の姿を見守っていたが、やがて女中に命じて彼を良助の室に寝かさせようとした。徳蔵は黙って女中の後に随って庭の方に廻ったが、其処の縁側からどうしても上ろうとしなかった。
「此処でいいんだ!」と彼は女中に怒鳴りつけた。
 仕方がないので縁側に蓆を敷いてやると、彼はその上にすぐごろりと寝てしまった。そし
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