良助が其処にやって来た時、田原さんは縁側に腰掛けていた。
「もう仕度は出来たのか。」と田原さんは云った。
「はい。」
「それではすぐに行くがいい。そして私《わし》が云ったように親父にそう云うんだよ。」
「それでは行って参ります。」
 良助は夜学の包みを手にして田原さんから貰った金のはいった封筒を懐にして、家を出た。外に出ると彼は一寸立ち止ってあたりを見廻したが、それから急に足を早めた。彼は仲猿楽町の中央工科学校の夜学に行く途中、弓町の父の家を訪わねばならなかった。
 良助は別に嬉しくもなかった。それかと云って悲しくもなかった。彼はただ自分が、田原さんの云い附けで何かしらぶつかって行かなければならないもののあるのを感じた。それが自分の実際の父であった。長い間田原さんの家に俥を引いて仕えていた父であった。砲兵工廠に働いている父であった。去年の暮に妻を失ってから酒の中に身を浸している父であった。田原さんに度々金の無心をしに来る父であった。何時も酔っぱらっていて、その息は酒臭かった。
 良助はそっと戸口から家の中を覗いてみた。十燭の電気がぼんやりともっている下で、父の徳蔵は食事をしていた
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