場の坂敷の上に洩れているのであった。水道の螺旋をしめると、水の滴る音はぴたりと止んだ。そして家の中が俄にしーんとしてきた。
田原さんはまた床の中にはいったが、蚊帳越しに見える五燭の電気の光りが、彼の眼をちらちら刺激した。それでまた起き上って電気を消した。
後はただ暗闇と静寂とだけであった。暫くじっとその暗を見つめていると、何時の間にか後はまたうとうととした。
それからどれほど経ったが分らないが或はすぐ間もなくであったかも知れない。外をごーっと凄じい音を立てて風が荒れ狂っている、と田原さんは思った。激しい風は軒と軒と、木の間とを分けて、吹き過ぎた。そしてその風の間に、物の隅にちらちらと赤く光るものがあった。じっと見つめていると、やがてそれが大きい焔になって燃え初めた。と人影が一つすっと何処かへ走った。焔は渦を巻いて家に燃え移った。そして彼はいつのまにかその焔にとりまかれていた。「しまった!」と思うと田原さんは眼を覚した。
それは殆んど一瞬間に起った幻だった。然しその意識が如何にもはっきりして、醒めた後の意識とすぐに続いていた。ただ風の音と焔とが、静けさと闇とに代ったのみであった。耳を澄すと庭の方に当って人の気配がした。誰かが足音を盗んで窺い寄っているらしかった。
田原さんは起き上って帯をしめ直した。それから暗闇の中で、用心のために戸棚からピストルを取り出して弾丸をこめた。
彼はそっと雨戸に近寄って、音のしないように静かに一枚戸を開いた。
重くどんよりと曇った夜であった。庭の中は、仄蒼くぼんやりした明るみが空気の中に在った。透し見ると向うの白く浮き出した庭石の上に、人の影が蹲っていた。
田原さんは少しも驚きはしなかった。凡てが予期した通りであった。そして彼は頭がはっきりしているのを感じた。恐ろしいほど澄み切ってはっきりしているのを感じた。手のピストルに眼をやると、それは銀色に冷たく光っていた。凡てが恐ろしいほど澄み切っていた。そしてそのままに身洛ち着いていた。静かであった。
田原さんはじっと人影を見つめた。
その男は長い間石の上に蹲っていた。それから、袂にマッチを探って、紙巻煙草に火をつけた。煙草の先がぼっと燃えたが、すぐに消えた。それから男は立ち上った。首を垂れながら歩き出したが、五六歩すると何かに躓いたように飛び上った。ばさっという音がした。男は其処に立ち止ってじっと地面を見つめていたが、梧桐の枯葉を一枚拾い取った。それをうち振りながら男はまた数歩した。と突然男は堪えられないような身振りをした。そしていきなりマッチを擦ってその枯葉に火を移した。ぼっと焔が立った。
それらのことが、仄かな明るみを堪えた暗闇の中に、ぼんやり拡大した輪廓を以て田原さんの眼に映じた。そして梧桐の葉がぼっと燃え上った時に、田原さんの頭の透徹と神経の集中とは極度に達した。
「誰だ!」と田原さんは怒鳴った。
男は駭然としてふり返った。
その瞬間田原さんは男の下に向ってピストルを発射した。轟然たる音が闇の中に響いて男はばたりと地上に倒れた。
殆んどそれと同時であった、田原さんは「しまった!」とピストルを持っている手先に感じた。彼はそれでもきっと唇をかみしめながら、静に跣足のまま庭に下りていった。片手に燃え残った枯葉を掴んだまま良助が左の胸を貫通せられて倒れていた。
田原さんは其処に立ち悚んだ。そして何か腑に落ちないように頭を傾げた。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「黒潮」
1917(大正6)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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