はい。そして御馳走になって来ました。」
「それはよかった。まあ身体でも拭いて来るがいい。」
 その時表の方の縁側で何か音がした。それをきくと田原さんは俄に陰欝な顔をして立ち上った。
 良助はただわけもなく田原さんの後について行った。
 徳蔵は上半身を起してぽかんとして縁側に腰掛けていた。
「どうだ気分は!」と田原さんは苛ら苛らしたような調子で尋ねた。
 徳蔵はふり返って田原さんを見ると、急に二三度お辞儀をした。
「どうだ気分は?」と田原さんはまた尋ねた。
「いえもうすっかりいいんです。なにその一寸……。」
 徳蔵はふと言葉を切って何やら考えていたが、それがどうしても思い出せない風であった。
「冷めたいのを一杯飲まないか。その方が頭がはっきりしていいよ。」
 それをきくと徳蔵は急に眼を瞬いた。そして縁側から離れて立ち上った。凡てが漸く記憶に甦ってきたらしかった。
「いや旦那、もう御免被ります。この上やったら死んじゃいまさあ。いや豪い目に逢いましたよ。身体中がぎらぎら燃え出しちまったんですよ。真紅に燃える奴あ平気ですがね、ぎらぎら燃える奴ときたらかないませんや。頭にがーんときたんですよ。眼が眩んじまいましてね。……相済みません。水を一杯頂きてえんですが。」
「水をくんでおいで。」と田原さんはふり返って良助に云った。
 その時徳蔵は初めて其処に田原さん一人でないことを知ったらしく、顔を挙げると、次の間の襖の影に立っている良助の姿を見出した。それから彼は眼を落して縁側に敷いてある蓆を見た。
 徳蔵は黙って蓆を畳んで片隅に押しやった。
 やがて彼は良助が持って来たコップの水をぐっと飲み干した。そして黙ってまたそのコップを差出した。良助はまたそれに一杯水を注いで来てやると、彼はそれをも一息に飲み干した。
 彼はコップを下に置くと、良助の袴姿をじろじろ見ていたが、それから田原さんの方に向いて頭を下げた。
「とんだ御厄介になりました。もう大丈夫です。」
 そう云って彼は帰りかけた。
「まあゆっくり休んでゆくがいい。」と田原さんは声をかけた。
「なに大丈夫です。相済みません。これからもう酒はきっぱり止《よ》しちまいます。全くです。……おい良助、お前もな、しっかり勉強しなよ。」
 徳蔵は逃げるようにして出て行ってしまった。
 良助は其処に立ったまま黙って父の後姿を見つめていた。
 その時田原さんは妙に不機嫌な顔をした。何か忌々しいものが、対象のない漠然とした忌々しさが、彼の頭に絡んできた。そして黙っていた。
 その時良助は田原さんの方へ向いて云った。
「父はどうしたんでございましょう。」
「なに、酒に酔って来たから寝かしておいたんだ。」
「それでも何か、ぎらぎら燃え上って頭にがーんとぶっつかったとか云っていましたが。」
「昼間泥酔したせいだろう。……自分で自分の身体に火をつけてるんだ。」
 良助は黙っていた。
「なに心配することはない。酒は止すと云っていたじゃないか。……早く袴でも取って水でも浴びて来るがいい。」
 田原さんはそう云ったまま二階に上っていった。良助は一歩その後に従ったが、また頭を振って自分の室にはいった。
 田原さんの不機嫌な顔と何かしら妙に忌々しい感情とは、その夕方まで続いた。
 そしてその晩、重夫はこんなことを云った。
「徳蔵のような奴は早くどうにかしなければとんだ迷惑を及ぼしますよ。」
「なに大変正直な奴なんだ。ただ酒をのむのがいけないんだ。」と田原さんは答えた。
「それは正直は正直でしょうが、愚かだから危険です。切端つまった場合にはどんなことをするか分りません。それに泥酔の癖がありますから……。」
 田原さんはそれには何とも答えなかった。そしてそのために益々不機嫌になった。その不機嫌さが神経に絡みついて、眉根をぴくぴく震わした。
 そんなことは田原さんには珍らしかった。いつも落ち附いてじっと構え込んでいる彼には、そんなことは実際非常に稀にしかなかった。で重夫もしげ[#「しげ」に傍点]子も妙にその晩は黙り込んでしまった。
 その夜、田原さんは早くから床にはいった。良助が夜学から帰って来て、「旦那様は?」と女中にきいた時は、田原さんはいつになく熟睡していた。
 夜半《よなか》に田原さんは眼を覚した。家の中はひっそりと静まり返っていた。そして彼の心も如何にも静かであった。ただぼんやり眼を開いていると、何処からか、ぽたり……ぽたりと物の滴るような音が聞えた。それは何時までも止まなかった。そしてしまいには彼の頭に執拗にまといついて来た。その鈍な重い物音が、おっ被さるように彼の頭の芯《しん》に響いた。
 田原さんは長い間考えていたが、漸次その物音の場所を探しあてたように急に起き上った。勝手元に行ってみると、それはやはり、水道の水が流し
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