はその中でぼんやりと広い社会というようなものを心に浮べて、そして涙ぐまるるような窮屈なような感情を覚えた。
四
良助が弓町の家を訪ねた後四、五日して、徳蔵は田原さんの家にやって来た。
彼はいつものように裏口の方から廻って来て、「今日は、」と声をかけた。
其処に丁度居合したしげ[#「しげ」に傍点]子はすぐに徳蔵の姿を見つけた。
「おや徳蔵ですか。この頃暫く姿を見せなかったではないかえ。」
「へへへ大変御無沙汰をしまして。」
「今日は造兵の方はお休みなの?……おや、大変な景気だねえ、昼間から赤い顔をして。」
「なに奥様、余り不景気なんだから一寸その景気附けに飲《や》ったんですよ。所で旦那はお家で。」
「ああ、あちらへ廻ってごらん。」
それで徳蔵は危なそうな足取りで庭から座敷の縁側の方へ廻った。
田原さんは、その時煽風器の風に身を吹かせて縁側に屈んでいた。
「やあ徳蔵か、どうだこの頃は。」
「へへへ相変らずでどうも……。」
「相変らず景気がいいんだな。」
「なに一寸景気附けですよ。お蔭で先達ては久しぶりに溜飲をさげやして、今日はそのお礼に出ましたような訳で。」
「なに礼なんかに来なくてもいいさ。あれは良助のために祝ってやったんだから。お前もいい息子を持って仕合せだね。良助は今に偉い者になるぞ。」
「本当ですか旦那。良助は偉いですかね。」
「ああ偉いとも。だからお前も少ししっかりしなくちゃいけない。何だろうな、その調子ではもう先日《こないだ》のものは飲んでしまったろうな。」
「へへへついどうも……。」
「まあ飲むのもいいがね、あの時良助は何か云いはしなかったか。」
「ええ云いましたよ、偉いことを云ったです。ええと、『酒は飲んでも構わない、ただ死んではいけない。』そして……私はどうも覚えが悪いんで外のことは忘れっちまったが、その言葉だけはちゃんと覚えてるんだ。旦那もうまいこと良助に教えたもんだと、つくづく感心しやしてね……。」
「それで?」
「一つ酒をやめてやろうと決心したんですがね。」
「うまくいかないのか。」
「そうだ、うまくいかねえんですよ。第一うまくいく道理がねえじゃありませんか。酒でも飲まなけりゃ身体のうちに火が無くなってしまいまさあね。私はね、誰かにきいたことがあるんですよ。人間に一番大事なのは身体のうちの火だってね。その火を消しちゃあそれ
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