田園の幻
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]
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「おじさん、砂糖黍たべようか。」
 宗太郎が駆けて来て、縁側に腰掛け煙草をふかしている私の方を、甘えるように見上げた。私に食べさせるというより、自分が食べたそうな眼色である。
「だって、君んとこに、砂糖黍作ってないじゃないか。」
「うん、貰って来るよ。今日はお祭りだから、誰も叱りゃしない。」
 先日、夕食後の散歩の時、宗太郎が砂糖黍を二本折り取ってきて、私に食べさせたが、それがよその畑のもので、あとで小言が来た。それでも、東京からのお客さんに食べさせるためだったということで、ああそうか、と済んでしまった。おかげで、私は十本ばかり高値に買わせられた。東京からのお客さんには、へんな特権があるらしい。
 日没後の残照の中に夕靄がたなびき、靄が薄らぐと共に明るみも薄らぎ空の星が光りを増してくる。
 ドーン、ドーン、ドンドコドン、ドーン、ドーン……
 太鼓の音がするようだ。耳をすますと、果して、八幡様の森の方で太鼓の音がしている。もうお祭りが初まるのであろう。
 宗太郎が砂糖黍を二本かついで来た。まだ若くて、根本の方にしか甘みはない。私がジャック・ナイフを出してやると、彼は砂糖黍を一節ずつ器用に切った。
 堅い表皮を歯でむいて、まだ薄皮の残っているやつを噛みしめるのである。青ぐさい仄かな甘みが、砂糖のあくどさと違って、野の幸を思わせる。
「お父さんどうしてるんだろう。」
 砂糖黍の噛み滓を吐き出し、太鼓の音に聞き耳を立てて、宗太郎は呟いた。投網の夜打ちが済んだら、彼は八幡様のお祭りに行くつもりなのである。
 彼の父の宗吉と私は、その晩、八幡様には行かないで、家で一献酌むことにしていた。お祭りといっても、特別な催し物があるわけではなく、飲んだり食ったりして打ち騒ぐだけで、その中に立ち交るのも私には却って気骨の折れることだろうと、宗吉が気を利かしてくれたのである。家で手製のドブロクを飲み、鶏鍋や野菜の煮付の外に、投網の夜打ちで取った川魚を甘煮にして、野趣を添えようというわけだ。投網を持ってる家は、今時、村には二軒しかないと、宗吉は自慢だった。実は、そんなこと自慢にも当らないほど、宗吉の家は村きっての大家であり、宗吉は一番のインテリなのだ。
 ただ一つ、私には気懸りなことがあった。三好屋の花子から預かってる荷物だ。細引で結えた小さな柳甲李で、それが押入の隅に転がっている。
 真昼間、農村では最も人目に怪しまれない時間だが、花子はその小さな甲李をいきなり私のところに持ち込んで来た。
「先生、」彼女は思いつめたように言う。「これを預かっておいて下さい。」
 否も応もなく、押しつけてしまうのだ。私は少し困った。第一、宗吉のところのこの隠居所に滞在するのも、あと僅かな日数の予定である。
「暫くの間で、よろしいんです。八幡様のお祭りの晩あたり、頂きに来ますから。」
 私がお祭りの集いには行かず家に籠ってるだろうと、彼女は見通したのであろう。
「先生なら安心です。甲李をあけて中を御覧なさることもないでしょうし、甲李のことをひとにお話しなさることもないでしょう。秘密にしといて下さい。村の人たちは、誰も、信用が出来ません。」
 よそから来た「先生」が、一番信用出来るというのであろうか。
 私は彼女とさほど懇意ではない。三好屋というのは、小間物類の雑貨をいろいろ並べ、かたわら居酒屋をやってる店である。主人はもと町の運送屋に働いていて、さまざまなことをやってきた男らしいが、村に引込んでからは、お上さんと二人でその小店を初めた。小布や化粧品などのストックをたくさん持ってるとの噂もある。川崎あたりの工場か酒場かに働いていた娘の花子を呼び戻してから、居酒屋をも兼業した。長男夫婦は別居して、律気に農業をやっている。
 その居酒屋に、私は何度か立ち寄って、土間の汚い木卓で飲んだ。花子がお燗をしてくれ、時にはお酌をしてくれる。
 丸みがかった顔に、眼が大きく目立つ、色の白い女である。眼が目立つといっても、奥深い色を湛えてるとか、視線が鋭いとかではなく、ただ円く大きく見開かれてるだけだ。見ようによっては、人をくった擦れっからしらしいところもあるようだし、また、案外初心らしいところもあるようだし、また、どこか釘が一本足りない白痴らしいところもあるようで、見当のつかない人柄である。だが、いずれにしても興味の持てる女ではない。それが突然、秘密の荷物というのを持ちこんで来たのだから、私は聊か呆れた。後でそれとなく聞き合せてみる
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