ない。龕燈の光りも、僅かな範囲にしか届かない。だが、そうした物陰もこの辺には少く、河原や水面は清く爽かに拡がっている。
「今晩は不漁だな。」宗吉は呟いて、網をじゃぶじゃぶ洗った。
 まったく、その晩は獲物が少なかった。型も小さかった。だいぶ上まで溯ったが、いくらも捕れなかった。それでも、食膳に野趣を添えるには充分だ。魚籠の底には、鮮鱗が青白く光っている。
 堤防に上り、田圃道をぬけて、家へ戻る。どういうわけか、この投網の夜打ち、往きも帰りも無言がちだ。村中も通らない。身も心もすっかり、大自然の夜気に浸しきった気持ちである。
 ドンドコ、ドンドコ、ドーン、ドーン……太鼓の音がまだ聞えていた。
 魚の料理は下女に任せて、私たちは顔や手足を洗った。宗太郎は着物を換えて八幡様へ出かけて行った。母が酒肴をさげてそちらへ行ってるのである。私は宗吉と差し向い、隠居所の室で酒をくみ交した。

 宗吉は私より年上で、長兄の友人なのだ。ふだんは私に丁寧な言葉遣いをし、酒がはいるとぞんざいな口を利く。
「どうです、仕事は捗取りますか。」
 なんども同じことを聞かれた。研究所の調査と整理の急な仕事があって、暫く他事の煩いなく専心勉強が出来て而も安価に滞在出来る所はあるまいかと虫のいいことを兄に相談すると、兄はすぐ宗吉の家の隠居所を勧めてくれた。隠居所に建てた室だが、その隠居が亡くなって空いており、見晴しもよく、閑静で、而も東京に近く、田舎の食物さえ辛棒すれば理想的な所だと言うのである。全くの田舎だが、来てみるとなるほど仕事がよく出来た。宗吉もめったに私の邪魔をしないようにしているらしい。あと一週間ぐらいで私は東京に帰るつもりだった。
「へえー、あと一週間ね……。」なにか心残りらしい面持ちなのだ。
「また御厄介になりに来ますよ。」
「そいつが、当にならん。兄さんもそう言ったが、あれっきりだ。然し、田舎はつまらんでしょう。」
「東京もつまりませんよ。時々出ていらっしゃるから、お分りでしょうが、何もかも薄っぺらになっちゃいましてね……。」
「はは、そりゃあそうだ。」
 鍋の鶏肉はもう煮えたっているし、野菜の煮附は大丼に盛ってあるし、先刻の川魚は甘煮にして大皿に並べてあった。そして手製のドブロクが何よりも上味だった。
「つまり、大戦のおかげで、東京と近在の田舎とが、いろんな点で平均してきたわけだな
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