と、高い天狗鼻をうごめかしながら、じっと考えていました。
すると、どこからともなく、さらさらと涼しい風が吹いて来て、その風上の遠くの遠くに、何とも言えないよい香りのするものがありました。麝香《じゃこう》でも肉桂《にっけい》でも伽羅《きゃら》でも蘭奢待《らんじゃたい》でもない。いやそんなものよりもっとよい、えも言われぬ香りでした。
「これはきっと天下第一の宝物に違いない!」と爺さんは思いました。
爺さんはもう有頂天《うちょうてん》になって、その宝物を取りに出かけました。
よい香りは、村の後ろの高い山の方から匂《にお》ってきました。爺さんは天狗鼻をうそうそさせながら、山の奥へ奥へと登って行きました。ところが不思議なことには、いくら行ってもそこへ行きつきませんでした。行けば行くほど、香りは遠い所から匂って来ます。
「これはきっと大変な宝に違いない!」と爺さんは考えました。
そのうちに、山はだんだん奥深くなって、草木がいっぱい茂っていて、もう路《みち》もなくなってしまいました。その上、爺《じい》さんは長い山路《やまじ》を歩いて来ましたので、腹はへってくるし、足は疲れてくるし、弱ってしまいました。けれど、ただ宝物を取るという欲でいっぱいでした。何もかもうち忘れて進んで行きました。
にわかに、ひときわ強くぷーんといい香りがしてきました。いよいよ来たなと思って、爺さんは一生懸命に足を早めました。そして山奥の崖《がけ》のふちまで来ますと、あっと言って立ち止まりました。
まあどうでしょう、崖の下の谷間一面に、素敵《すてき》な花が咲き乱れてるではありませんか。十畳敷《じゅうじょうじき》もあろうかと思われるほど大きな百合《ゆり》の形をした花で、そのビロードのような花びらは、赤や青や黄や紫《むらさき》やさまざまの色をして、その上に金色の花粉《かふん》が露《つゆ》のように散りこぼれていて、それをすみきった日の光が、きらきら照らしているのです。そして涼しい風が軽やかに流れるたびに、息もつけないほどのよい香りが、むらむらと立ち昇ってくるのです。あまりのことに、爺さんはぼんやりしてしまいました。
やがて我に返ると、爺さんは早くその花を折り取ってやりたくなりました。ところが、崖の上からその谷間に下りるのが容易でありません。ごつごつした岩の崖で、何十丈《なんじゅうじょう》というほど高いのです。爺さんはあちらこちら見廻してみて、ようやく一本の葛《かずら》を見つけ出し、それにすがっており始めました。
ちょうど崖の中ほどまでおりますと、どうしたはずみか、葛がぶつりと切れて、あっと言うまに、爺さんはまっさかさまに転げ落ちました。転げ落ちるとたんに、高い鼻が岩角にぶつかって、ぽきりと大きな音を立てて折れてしまいました。
爺さんは谷底で夢中に飛び起きて、一番先に鼻へ手をあててみますと、さあ大変です、天狗からもらった大事な大事な鼻どころか、自分の元の低い鼻までも根っこからなくなって、顔がのっぺらぼうになってるではありませんか。あたりを見廻してみますと、今まで咲き乱れていた花は影も形もなくて、自分の足下に、何か赤いものが一つ転がっています。よく見るとそれはまっ赤な高い天狗鼻《てんぐばな》でした。
「まあこれさえあればいい!」
そう思って爺《じい》さんは、急いで拾おうとしました。すると驚いたことには、その赤い鼻がふわりと宙に飛び上がって、舞い上がりながら次第《しだい》に大きくなって、やがては空いっぱいの大きさになりました。そして爺さんがあっ気にとられていると、その空いっぱいの大きな鼻の向こうから、「あははははは」と雷《かみなり》のような笑い声が聞こえました。
それはたぶん、天狗が笑ったのだろうということです。
底本:「豊島与志雄童話集」海鳥社
1990(平成2)年11月27日第1刷発行
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング