大事なお客をしくじってはいけない。ほんとにそう云ってくれ、馴染の人が来たら帰るから。」
 いつのまにか真剣な調子になっていた。
「それ誰に云うこと、え、片岡さん。構やしない、あたしみんな帰しちまうわ。こないだも……知らなかったでしょう……馴染の人が来たのよ、あんたがここで酒を飲んでる時……。向うの室に通して、今丁度出かけるところで、迎いの人が来て待ってるって……本所の伯母さんとこに行くんだって……なにどうだっていいのよ。分って……。」
「だけど……。」
「いや、聞かない、聞かない。そんなこと、片岡さん、誰に向って云うの。」
「喜代ちゃん!」
 彼女は返事をしなかった。
「喜代ちゃん!」
 こちらも怒ったふりを見せようか、黙っててやろうか、擽ってやろうか、どうしてくれようか……とそんなことを考えるだけの間を置いて、彼女はふいに、皺も筋もない白臘のような顔を振向けた。
「なあに、片岡さん……。」
 その、彼女の口から出る自分の名前を、私は不思議な気持で聞いた。
 私の頭に映ってるのは、漠然と心機一転を求めてる一人の男と、生に喘いでる一人の女とだった。更に、新生の力強い世界を翹望してる者と、愛慾の世界を荷ってる者とであった。その二人が、そこに眼前に小さく寄り添って、片岡さん、喜代ちゃん、と呼び合っていた。
 片岡正夫、緒方喜代子……。その固有名詞を、長く忘れていた昔の人をでも思い起すような風に、私は口の中で繰返してみた。
 酒に酔ってた時、彼女は私の名刺を見たのだった。それから自分の名前も、箸の先に酒をつけて餉台の上に書いてみせた。喜代子というのは本名で、緒方という姓だけを書いた。紫檀の木肌に酒で書かれたその文字が、深く私の眼の中に残った。――彼女は高崎の者で、もう両親はなく、盲目の兄は按摩をしており、姉は救世軍にはいっているとか……。
 然しそんなことは、互の身の上のことなんかは、どうでもよかった。ただ取り留めもない雑談だけで充分だった。
「あたし、あんたとこうしているのが、一番楽しみよ。御免なさい。」
 そして彼女は私の肩に頭をもたせかけたり、足を投げ出したりして、いろんなことを云った。
 私が一週間ばかり姿を見せなかった時、ひどく心配して、ひそかに易者のところへ馳けていったこと。夕方、私らしい者が微笑して通りすぎたので、裏からぬけ出して追っかけて行くと、人違いで困ったこと。何だか無性に癪に障って、コップで酒をあおって寝たら、一日逢わねば千秋の……と何度も寝言を云って、さんざん年寄りのお客にからかわれたこと。それから……。
 嘘ともつかず本当ともつかない、煙草の煙のような話だった。そしていつも帰りには、彼女は私の袂に、敷島を一袋入れてくれた。
 その一袋の敷島が、私の気を惹いた。と共に、彼女の眼に涙を見出すようになった。
 眼の視力の鈍い、どこかきかぬ気らしい、白蝋の面のようなその顔は、涙にふさわしくなかった。けれどともすると、ふと言葉が途切れて長く黙ってる折など、彼女はぼんやり空《くう》を見つめて、我を忘れたようになっていた。そして殆んど無意識的に、眼をしばたたき、肩をこまかく震わせた。――彼女は泣いていた。
「おい、喜代ちゃん!」
 彼女は放心の状態で、曖昧な微笑を頬に浮べかける……。がその時には、私の方で、もう眼に一杯涙をためていた。
「おばかさんだね。泣く奴があるものか。」
 そして二人共涙を流した。それから接吻した。
 彼女は時々軽い咳をしていた。唇の中程にはいつも濃く紅《べに》を塗っていた。その唇に私は自分の唇を自由に任せた。
「やたらに接吻しちゃいけないよ。病気なんか、接吻が一番あぶないから。」
「分ってるわ。ただ一人っきりよ。」
 そして私達はまた長い隔てない抱擁をした。
 私の膝の上に、私の腕の中に、惜しげもなく投げ出されてる彼女の肉体は、軟骨質の水母《くらげ》――もしそういうものがあれば――それのようだった。赤い錦紗《きんしゃ》の着物の下に、不随意筋の運動めいた、柔かな中に円いくりくりした動きを持っていた。そして私の眼の前に、すぐ睫毛《まつげ》が届きそうなところに、彼女の頸筋の真白な細《こま》かな皮膚が、平らに、広く、無限に伸び拡がって、温い雪――というものがあれば――それに蔽われた大地の肌のように、静に無際限に波動し初める。それが私を溺らしてゆく……。私は息苦しくなって、非常な努力で目玉を一回転させる。格恰のいい耳朶の端が、黒髪の下にふっくらと覗いている。私はそれにつかまる。――彼女の耳はごく柔かだった。
 私は立上りかけると、彼女は無理に縋りついてきた。殆んど気品を帯びてるとさえ云えるほどの張りのある表情で、幾度も頭を振った。
「いや、いやよ。帰さない。」
「だって、困るじゃないか。僕にだって用もあるし……。」
「何だかいや。帰したくない。こうして始終逢ってても……それでどうなるの。お金だって……。それだけのお金があれば、間借りしてでも、立派にやっていけるわ。そりゃあ、あんたには奥さんも子供もあるし、あたしはこんなとこの女だし、分ってるけれど……ねえ、片岡さん、どうしたらいいの。」
「だからさ、僕も考えてるんだ。今のことじゃなく、君の一生のこと、お婆さんになった時のことまで考えてるんだ。二月《ふたつき》か三月《みつき》、半年か一年、それだけなら、今すぐにでもどうにでも出来る。然しそれから先がさ、さよならをするようなら、つまらないじゃないか、僕は君の一生のことを考えてるんだ。分ったかい、喜代ちゃん。」
 私の語気は全く真剣になっていた。実際私は、彼女の一生のことを考えていた。
 彼女は嘗て、横浜の海岸で身を投げようとしてるところを、見付かって家に連れ戻された。それから、父の石塔の金をさらって逃げ出した。それから世の中に孤立してきた。石塔の金を是非とも返してみせる、それが彼女の唯一の目的だった。
「それから先は、もう真の闇よ。」
 話は嘘にせよ、真《まこと》にせよ、その時の彼女の眼付には不気味な光が籠っていた。
「あきれた女でしょう。」
 そして晴れやかな笑い方をした。
 その頃である。私は夢の中で素敵な詩を拵えた。胸が躍った。然し眼が覚めてみると、そのすばらしい詩の文句は、風に吹かるる落葉のように四方へ散乱してしまって、ただ二句が残ってるきりだった。
[#ここから3字下げ]
彼女を美しいとは云うまいぞ、
彼女を美《び》だと云おう。
[#ここで字下げ終わり]
 実際彼女は美しい女とは云えなかった。顔立は私の好みにかなっていたが、少しつき出し加減の口のあたりに、余り怜悧でない卑しさがあった。私の心を惹いた眼も、普通の人にとっては一種の不具だったろう。ただ、その眼瞼の二重と耳の格恰だけは美事だった。――その彼女の全体が、私にとっては、泥土の中に影の中に転ってる美だった。
 それを、明るい日の光の中に移したい、彼女を朗かな生活の中に返らしたい、と私は考えた。
 一度私は彼女を外に連れて出た。然しそれは夜だった。日の光がなかった。一寸芝居を観て帰った。一度は食事をしに外出した。彼女は長いコートを着て草履をはいて、子供のような足取りで歩いた。
 そうしたことで、私の五百円はわけなく無くなっていった。初めは、自分の古い生活の影と共に一挙に溝《どぶ》に投ずるつもりのその金が、ひどく惜しまれた。金が無くなることは、彼女と別れることである。私は愛慾的な未練は更に感じなかったが、彼女のこと――彼女の生涯のことを考えていた。
 自分の新生活、それから、愛慾の世界を背負ってる売笑掃、それがいつのまにか、「片岡さん、喜代ちゃん。」と呼び交わす二人の男女になっていた。――能面《のうめん》のような鏡の中の彼女の顔が、私の眼の前にいつも浮んできた。
 或る日、彼女は私の顔をじっと見つめていたが、不意に私に飛びついてきた。その時私は、彼女の水荒れのした指先と可愛い爪とを弄《もてあそ》んでいた。その私の人差指を、彼女は黙って自分の口の中に持っていった。下顎の糸切歯の隣りに、ぽかりと恐ろしい穴があいていた。私はそれを深い淵のように感じた。
「どうしたんだい。」
「むりやりに引っこ抜いたの。」
 その深い淵からくる一種の眩暈みたいなものに、私は打たれた……。

     二 或る売笑婦の話

 何だか息苦しくって、そして頭の遠い奥を金槌で打たれてるようで、あたしは眼をさました。布団のはじっこに寝ていて、身体半分がぞっと寒かった。向き直って、手さぐりに寄っていくと……違っていた。あたしはあの人の夢をみてたようでもあった。そのあの人と、手触りがまるで違っていた。――あの人はいつも酒を飲むだけで、あそんではいなかった。何かの調子であたしがそこまでもっていくことの出来た四度か五度、それくらいのものだった。あの人はそんなことに興味がないらしかった。あたしは極り悪い思いをしたことがあった。だけどそんな風なので却って、あの人の感じはあたしの気持にはっきり残っていた。――それが、まるで違っていた。あたしははっきり眼をさました。歯がずきんずきん痛んでいた。
 あたしはそっと起き上った。着物をひっかけて、そこに坐りこんで、朝日を一本吸った。男はよく眠ってるようだった。あたしはいつのまにか、煙草の方を忘れて、歯の痛みの方を見つめていた。あの人のことを考えていた。それがどっちだかよく分らなかった。気がむしゃくしゃしてきた。やたらに癪にさわった。布団の襟から覗いてる男の頭が、鉄の丸《たま》のように見えた。
 あたしは痛い歯を、下の糸切歯の次の歯を、やたらにゆすってやった。鏡台の方ににじりよって、鏡でのぞいてみたが……口を開いて指を一本くわえてる自分の顔が、ひどく醜《みにく》かった。あの人がよく私の後ろからそっと見た鏡の中の顔、そういう時の顔が一番好だとあの人は云っていた。……あの人はどうしてるんだろう。
 ばか、ばか、とあたしは自分に云ってやった。そしてなお歯をゆすった。痛かった。痒いところをつねるような痛さから、もうそれを通りこして、頭のしんに響くような痛さになっていた。忘れよう忘れよう、心の底であたしは云った。そして歯をゆすった。何だかしらんが無精《むしょう》に腹が立った。そしてとうとう、力任せに歯をひっこぬいてしまった。
 あたしはびっくりした。冷い風が、歯のぬけた跡から吹きこんで、身体中を吹き廻った。そのくせ、熱いきりきりした痛みが、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりまでのぼってきた。上の平たい根の長い歯を、あたしは懐紙《ふところがみ》に包んで、鏡台の抽出《ひきだし》にしまった。その時気がつくと、口の中が血で真赤になっていた。あたしは懐紙をくわえた。歯の跡が大きな空洞になっていた。身体にも心にも、力の心棒がなくなったようだった。あたしは泣きだした。
 男の声がした。言葉は分らなかったが、はっきり声が聞えた。あたしははっとした。振向いてみると、男はねぼけた顔付で、不思議そうにこちらを見ていた。あたしは笑ってみせようとした。けれど、つぎほがわるく、またなさけなかった。頬辺を押えて顔を伏せた。
 男はのっそり腹逼いになって、煙草を吸いだした。
「何をしてるの、そんなところで……。」
「歯が痛いのよ。」
「歯が痛い……?」
「あんまり痛むから抜いちゃったわ。癪にさわって……。」
 云いかけてあたしはまた泣き出した。そこら中に当りちらしてやりたかった。どうにも我慢が出来なかった。
「歯が痛むくらい……、」と男は云っていた、「一寸医者に行ってくれば、じきになおる。……もう夜が明けてるよ。」
 ほんとにもう夜が明けていた。窓のカーテンを開くと、室の中までぼーっと白《しら》み渡って、電燈の光が薄くなった。
「じゃあ一寸行ってくるわ。その代り、じきに帰ってくるから、待っててね。寝て待ってるのよ。屹度ね。」
 そしてあたしは、慌てて着物を着て、裏口から飛び出していった。
 薄曇りのどんよりした日だった。何だか夢の中のような朝の明るみだった。
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