片岡正夫だ。
十日ばかり前に一度逢ったきりだったが、俺はその顔とその名前とをよく覚えていた。人の顔や名前を記憶するのは大事な才能だ。
仲間の者二三人と、浅草の或るカフェーにはいった時、へぼ文士のジプさんが、雀の巣のような頭をした男と酒を飲んでいた。ジプさんというのは内緒の渾名《あだな》で、雑文や批評や小説や戯曲や何でもかでも書きとばし、それを時々どこかにのせて貰い、三十すぎた独身者で、始終市内をうろつき、公娼でも私娼でも女給でも、相手は構わないが決して一人に馴染まない、凡ての点に於て僕は天下のジプシーだと自称してる、そこから来たのだった。
俺は一寸挨拶したが、ジプさんは相手と何か議論していて、大して注意を向けなかった。その隣りの卓子があいていたので、俺達はそこに、ジプさんの後ろに坐った。
珈琲をのんでるうちに、ジプさんの方の話がちょいちょい俺の耳にはいった。雀の巣の方は、声は低かったがきつい調子で、盛んに論じ立ててジプさんをやりこめてるらしかった。――原始人の遊牧的な生活は、楽しい生活ではなかったに違いない。彼等は淋しく悲しかった筈だ。――男はいつも誰かに恋してるがいいのだ。恋
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