いたいことが山ほどあるようでいて、何一つ云えなかった。そしていつもより冷い態度であの人を帰した。
 そのことが、後でとても淋しくて仕様がなかった。あの人は一週間ばかり来なかった。その間あたしは、出来るだけ口を噤んで、眼をつぶって、じっともちこたえた。抜歯のあとの空洞《うつろ》が始終気にかかった。けれど自棄《やけ》は起さなかった。
 そして次にあの人に逢った時、あたしは涙をおさえてあの人の肩に縋りついた。
「今日はあたし、あんたの側を一寸も離れない、離れたくない。」
「本当か。」とあの人は云った。
 その調子が余り強かったので、あたしは返事に迷った。するとあの人は笑いだした。
「喜代ちゃん、これからどこかへ酒を飲みに行こう。君を酔っ払わしてみたいんだ。」
 あたしは何だか腑に落ちなくてあの人の顔を眺めた。あの人はほんとに晴々とした眼をしていた。

     三 或る不良少年の話

 三月の末近い頃のことだ。俺は向島の牛天神の方から、言問橋をぬけて浅草の六区へ急いだ。もう夜の九時頃だった。そして活動がはねるまでに向うへ着かなくちゃならなかった。用があった。
 言問橋が出来たてのことで、橋の
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