寒かった。淋しかった。いつまでも、どこまでも、そのまま歩き続けたかった。あたりはまだ寝静まって、ぽつりぽつりと、朝帰りの男の影が、幻のように見えていた。あの人……というただそんな気持だけで、あたしは何もかも忘れてぼんやりしていた。
 それでも、病院にいって、看護婦にたのんで、歯のぬけたあとに薬をぬって貰った。
 戻ってくると、男はもう帰っていた。姉《ねえ》ちゃんの小言をきき流して、あたしは二階に上った。これであのお客もしくじっちゃった、とそんなことを、三四度来たことのある男について、小気味よく考えながら、着物のまま布団にもぐりこんだ。歯の痛みはけろりとなおっていた。あの人のこともぼーっとなっていた。あたしはぐっすり眠った。
 呼び起されるまでは眼を覚さなかった。起上ってからもぐずぐずしていた。お湯や髪結にいっても、何だかぼんやりして、いつもより時間をつぶした。
 今日は休んでやろうか、とも思ったが、あの人が来そうな気がして、つとめてお店に出た。
 お母ちゃんから、ちくりちくりと皮肉な針をさされた。この頃どうかしてるとか、馴染のお客さんがずんと減ったとか、なまけ癖がついたとか、そんな風に
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