鏡でのぞいてみたが……口を開いて指を一本くわえてる自分の顔が、ひどく醜《みにく》かった。あの人がよく私の後ろからそっと見た鏡の中の顔、そういう時の顔が一番好だとあの人は云っていた。……あの人はどうしてるんだろう。
 ばか、ばか、とあたしは自分に云ってやった。そしてなお歯をゆすった。痛かった。痒いところをつねるような痛さから、もうそれを通りこして、頭のしんに響くような痛さになっていた。忘れよう忘れよう、心の底であたしは云った。そして歯をゆすった。何だかしらんが無精《むしょう》に腹が立った。そしてとうとう、力任せに歯をひっこぬいてしまった。
 あたしはびっくりした。冷い風が、歯のぬけた跡から吹きこんで、身体中を吹き廻った。そのくせ、熱いきりきりした痛みが、顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》のあたりまでのぼってきた。上の平たい根の長い歯を、あたしは懐紙《ふところがみ》に包んで、鏡台の抽出《ひきだし》にしまった。その時気がつくと、口の中が血で真赤になっていた。あたしは懐紙をくわえた。歯の跡が大きな空洞になっていた。身体にも心にも、力の心棒がなくなったようだった。あたしは泣き
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