大事なお客をしくじってはいけない。ほんとにそう云ってくれ、馴染の人が来たら帰るから。」
 いつのまにか真剣な調子になっていた。
「それ誰に云うこと、え、片岡さん。構やしない、あたしみんな帰しちまうわ。こないだも……知らなかったでしょう……馴染の人が来たのよ、あんたがここで酒を飲んでる時……。向うの室に通して、今丁度出かけるところで、迎いの人が来て待ってるって……本所の伯母さんとこに行くんだって……なにどうだっていいのよ。分って……。」
「だけど……。」
「いや、聞かない、聞かない。そんなこと、片岡さん、誰に向って云うの。」
「喜代ちゃん!」
 彼女は返事をしなかった。
「喜代ちゃん!」
 こちらも怒ったふりを見せようか、黙っててやろうか、擽ってやろうか、どうしてくれようか……とそんなことを考えるだけの間を置いて、彼女はふいに、皺も筋もない白臘のような顔を振向けた。
「なあに、片岡さん……。」
 その、彼女の口から出る自分の名前を、私は不思議な気持で聞いた。
 私の頭に映ってるのは、漠然と心機一転を求めてる一人の男と、生に喘いでる一人の女とだった。更に、新生の力強い世界を翹望してる者と、
前へ 次へ
全38ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング