「いい日だ。見てごらん、空が澄んでる。日の光が晴々としてる。」
彼女は眩しそうに外を眺めて、私の言葉に首肯《うなず》いてみせた。
初春の空と、初春の外光……。ただ、青いものは室の中の一鉢の万年青《おもと》きりだった。
万年青の上の方、壁に七福神の卑俗な額が掛っていた。それをぼんやり見ていると、彼女は下手な節廻しで低く歌っている――
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恋じゃなし
情人《いろ》じゃなおなし
ただ何とのう……
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私が見返すと、彼女はぷつりと歌いやめて、私の視線にしがみついてくる。
「ねえ、いつもあんたの我儘を通してるんだから、今日はあたしの我儘を聞いて頂戴。」
「なんだい。」
「屹度ね。」
「云わない先に、そんな無茶な……。」
「だってさ……。」
温室のような明るい空気の中に、彼女の顔が花のようになる。その眼附が花弁のように盲《めし》いている。――彼女の皮膚は、場所柄になく非常に細《こま》やかで綺麗だった。
四五回に一度くらいは、私も彼女の我儘を聞いてやった。だがつまらなかった。その後では淋しくなった。
長襦袢一つで鏡台の前に坐ってる彼女の顔が、変に私の頭の中に刻みこまれた。後ろから見ると、布天神髷《きれてんじんまげ》の赤い鹿子絞《かのこしぼり》と、翼のように耳の上にかき上げられてる両の鬢と、白い頸筋とだけだが、一寸位置を変えると、深々と澄んでる鏡の面に、彼女の顔がくっきり浮出してるのが見えた。軽い斜視の両の黒目が近寄って、二重眼瞼の方へ上目にじっと見据えられてるきりで、額からなだらかな線の頬や※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]へかけて、一つの筋も皺もないただ真白な顔が、能面のようにして空《くう》に懸っている。その面《めん》が、私の眼を鏡の底に見出すと、ふいに、だが如何にも自然に、淋しい笑みを頬に浮べる……。そして見返った時にはもう、生々と血が通ってる顔だった。
「おかしいわ。あたしなんだか極りが悪くなっちゃって……。飲みましょうか。」
私はまた、此度は彼女と交る代るに、杯を取上げた。彼女は多くは飲めなかった。
私の心は落付かなかった。
「馴染のお客さんが来たら、いつでも帰るから、そう云ってくれ。」
私はそんなことを繰返し云った。
「僕はただ君とこうして酒を飲んでおればそれでいいんだ。それだけだ。だが、君の方は、
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