を投じ去るのに最も好都合な場所があり、人生の現実の中にふみこむのに最も力強い戸口があった。
狭い入り組んだ小路、小さな硝子の小窓から至る処に覗いてる無数の女の顔、物に憑かれたように飄々とうろついてる多くの男の影、その中にあって、軽い斜視の……近視の……乱視の……彼女の眼は、一種の美を持っていた。
「先《さき》のことは、まるで真暗よ。ここを勤めあげてから……それからどうしようって、当もないの。時々、お客さんが眠ってる間に、夜中に起き上って、眼をつぶって、じっとしてることがあるの、一時間も……。ただ真暗なものを、一心に見つめてるきり……なんにもありゃしないわ。」
壁に軽く背をもたして、唇の先で煙草の煙を吐きながら、そんなことを云う彼女の顔には、どこかつんとした意地っ張りなところがあって、その眼には、鈍い視線の上に光が浮いていた。
彼女は今年二十三、丙午《ひのえうま》の歳だった。
「大変な歳に生れついたもんだね。九族を殺すっていうよ。」
「九族……?」
「親子兄弟、一家眷族を、みんな打負してしまうんだ。」
「そう。やっぱりどこか強いのね。」
他人事《ひとごと》のように彼女は云って、淋しい笑いをした。
私は杯《さかづき》を重ねた。
酒はごくいいのを頼んで、それを二本か三本、つまみ物としてはただ海苔と※[#「魚+昜」、233−下−20]の類、初めから酔ってる時には砂糖水、そして彼女と一時間か二時間、取り留めのない話をした。
それだけで私には充分だった。私は彼女の肉体を漁《あさ》りに来てるのでもなければ、彼女を愛してるのでもなかった。その愛慾の巷で時間を過すことによって、新たな生活の出発の一歩を、実人生に根を下した力強い一歩を、見出そうとしてるのだった。彼女はただ仮りの相手に過ぎなかった。――時によると、表を、新内《しんない》の流《ながし》が通った。ヴァイオリンの俗謡が響いた。夜分は、客を呼ぶ女の声が聞えることもあった。御詠歌をうたって軒毎に報捨を乞う遍路姿の娘の、哀れな鈴の音が鳴ることもあった。
三畳か四畳半の狭い室なので、夜は電燈の光で相当に明るかった。が昼間は大抵、窓に重いカーテンが掛っていた。私はいつもそれを一杯あけさした。磨硝子《すりがらす》に漉《こ》さるる日の光が、室の中を温室のようにした。窓を開くと、隣家の軒に遮られて僅かではあるが、蒼空が見えた。
前へ
次へ
全19ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング