3水準1−92−36]いてるようだった。それがやはり俺には、はがゆくもあったり可笑しくもあった。
そのうちにどうしたのか、雀の巣は慌てて立上って出ていった。急な用でもあったんだろう。ジプさんは一人で居残った。
俺は酒でも奢って貰おうと思って、ジプさんの方へ立上っていった。
「大変やりこめられてたようじゃありませんか。」
「うむ。」とジプさんはいつになく考えこんでいた。「どうも彼奴《あいつ》この頃変だ。今日はまたむきになって饒舌り立てた。敵意……僕に向ってじゃない、何かに敵意でも持ってるように、しきりに苛立っていた。平素は温厚な男だが……。」
「どういう人ですか。」
「大変な学者だ。こんど紹介してやろう。図書館に勤めてるが、古今東西の学問に通じてる。片岡……片岡正夫というんだ。」
ほう……と俺は思った。
その雀の巣の片岡正夫だった。それが夜の大川端を女を連れて歩いてる……。
俺は二人をやり過して、その後を見送った。
女は季節後れの厚ぽったい長いコートを着て、薄いフェルトの草履で、ぽったりぽったり歩いていた。髪を天神髷に結《い》っていた。その襟足がばかに真白だったが、先刻《さっき》ちらと見たところでは、顔は濃い白粉《おしろい》を脂で拭きとったらしくつるりとしていた。それと並んでがっしりした高い男の姿が、妙に不似合だった。駒下駄を一足一足ふみしめてる歩きっぷりが、身体から酔がさめて頭にまだ酔が残ってる中途半端なものだった。
夜、新らしい広い道、大川端、水にうつってる向う岸の明るい灯、銘酒屋のらしい女、雀の巣の片岡さん……その全体がどうもしっくりいかないで、俺の注意を惹いた。
俺は遠くから、電燈の柱の影にかくれて、なお二人の様子を窺った。
二人は何か時々短い言葉を交しながら、肩を並べて、ごくゆっくり歩いていた。どこかへ行く風でもなく、また散歩ともつかなかった。そして遠く、もう歩いてもいないほどに見えた時、男と女との間が離れた。女は土手の端の川縁に立止った。それを男は後ろから見やってるらしかった。そして……一分……二分……男はじりじりと女の方へ近寄っていった。
俺ははっとした。男は手をマントの下から出して、女の背中の方へ……。一突で女は川の中に落ちる……。ではなかった。男の手が女の肩にかかると、二人はぴったりくっついて一つの影となった。女が身を投げるんでも
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