ませんでした。不在中は、丁度いい機会だといって、小野君が泊りに来てくれました。
 トキエの帰郷は十日ばかりの予定でしたが、どうしたのか、五日ほどで帰ってきました。旅の疲れもなく、前よりは、晴れやかに色艶もよくなってるようでした。名物だという堅いおこしなんかを持ってきました。
「つまんなかったわ。お母さんもすっかり年とってしまって……あたしも、なんだかよそよそしい気持がして……。」
 私達二人のこと、子供のことなどは、何とも云いません。
「そんなこと、分ってるじゃないの。」
 前に、芸者に出ていた時と、同じような笑い方です。
 私は、とっつき場を失ったような気持でした。そしてぽつりと、亡くなったミヨ子のことが、宙に浮いて、頭にひっかかってきました。引越しの相談をすると、例の通り、ええいいわ……なんです。周旋屋にたのんで、少し遠くに煙草化粧品の小さな店を――前のところより少し静かな小綺麗な街路で――見付けて、そこに移り、前の家には、周旋屋の手で、譲店の大きな紙がはられました。
「また芸者にでも出たくはない?」
「そうね……でも、あたしたち、これきりになるの、なんだか淋しいわ。」
 なんだか淋しい……言葉が足りないのか、或はそれだけの気持なのか、私には分りませんでした。そして私が長唄の稽古をすすめると、すぐにその通りにしました。小女が引続いていてくれました。煙草と化粧品ですから、正札づきで、たまに客があっても不自由しません。そしてトキエは、髪結の上に長唄と、外出することが多くなり、なお、私がしきりに、映画や芝居や、銀座あたりにまでも連れ出しました。彼女は次第に浮々と晴れやかになってきました。だが……私の方は、次第に沈んできました。彼女を連れ出すことが多いよりもなお一層、酒をのむことが多くなりました。のんきな晴々とした彼女の側に、引張り廻されるようにして、憂欝な様子でくっついてる私の姿が、幾人もの知人の目に止ったものです。
 そしてずるずる日がたって、半年ばかりすると、彼女はまた、身体の異状を訴えました。やはり妊娠でした。
「やっぱり、そうですって……。」
 おしろいの濃い頬に赤みがさして、例の妖しい眼付でにっこり笑っています……。
 私は驚嘆に似た気持で、その事実を受け容れました。一度悲痛の底をくぐってきた後の、胎の据った驚嘆とでも云いましょうか。然し、私は悲痛なんか感じたことはないのです。ミヨ子の死とは遊離した別個のものでした。其他のことは何が悲痛なもんですか、驚嘆なもんですか。尤も、妊娠を避けるような方法も取ってはいましたが、のんきな彼女とよく酔払ってる私とのことで、そしてまた至極あっさりしたもので、考えてみればばかげた話です。それでも……悲痛をくぐった後の驚嘆と……まあそういったこの感情は、実際不思議なものでした。
 ――一体、どうするつもりかしら?
 その疑問は、もう今となっては彼女には歯も立ちそうにありません。ただ、私自身にはね返ってくるばかりです。いや初めからそれは、私自身に向って発せられるべきものだったかも知れません。
 相変らず彼女は、店の方は……元来が申し訳だけのものではありましたが……投げやりで、朝は遅く、夜も遅く、始終お化粧をしていてにこやかで、以前よりは肌も細やかになり、黒目のうわずった眼付で愛嬌をおび、のんきに髪結や長唄の稽古に出かけ、私がいかに酔払って夜遅くやって来ようと、やきもちらしい言葉一つ出さず、誘えばどこへでもすぐについて来、自分の意見なんか少しもないらしく、慾求さえもないらしく、そして再び、毛糸の球なんか膝のあたりにころがして……妊娠さえも彼女にとっては「ええいいわ」の一つの現われに過ぎなかったようです。芸妓廃業、世帯、出産、子供の死亡、移転、妊娠……そうした、私から考えれば彼女にとっての重大事らしい事柄も、一切を平気で受け容れ通りすぎてるのでした。そしていつも、若々しくにこやかにしていました。
 驚嘆から、次には、負けた……その一言でつくせる気持です。もし自然というものがあるなら、彼女はそのいい見本でしょう。こんな時、ふっと、死にたくなる気持の起ることが、ないものでしょうか。私がもし一言云い出せば、彼女は即座に、ええいいわ、と云うにきまっています。そしたらもう、取返しのつかないことになりそうです……。
 私は次第に憂欝になって、酒をのむことが益々多くなりました。友人たちの軽蔑の眼を……気のせいか……感ずることが多く、それよりも、小野君の怒ったような眼付が、更に私の胸を刺し[#「刺し」は底本では「剌し」]ました。
「この頃はどうだい?」
 そう何気なく尋ねられても、私は苦笑を返すだけでした。そしていつぞや彼と喧嘩腰で云いあった時の言葉などが、ちらちら頭の底に浮んできました。そうだ……。私はいろいろなことで、親父に内緒で借財もあるし、この際何か仕事を見つけて働こう……かしら。仕事……それ自身はたとえ無意味なものであっても、それは私の生活に或る目的を与えてくれるかも知れない。そしたら彼女の……肉体にも、何か……何か……精神的なものを注ぎこむことが出来るかも知れない……。そんなことを頭の中で、夢のように反芻してみましたが……然し、少しも熱意がもてませんでした。酔払いのたわごとと同じでした。
「いやに沈んでるね……ばかだな、も一度子供でも拵えるさ。」
 本当の気持で云ったのでしょうが、私の胸にぐっときました。
「そしたら、また絵をかいてくれるかね。」
 小野君は口をつぐんで、妙に眉をしかめて私の顔を眺めました。不思議にも、私は彼を殴りつけてやりたくなり、敵意に満ちた気持で酒をあおりました。そして彼を引っぱっていって、或る待合にあがりこみ、自動車でトキエを迎えにやっておいて、芸者を二三人よんで騒ぎました。酔ったあげくとは云え、後で考えると、ちょっと冷汗ものです……。
 トキエは、世帯をもってから殆んどつけなかったはでな着物に、縫紋の羽織なんかひっかけて、にっこり笑ってはいって来ました。そして私の側にぴたりと坐ると、芸者たちに鷹揚な軽い会釈をして、小野君に、今晩はと……それだけが瑕で……口先だけの挨拶をしました。いつにないその見上げた態度に、私は少しぼんやりしました。小野君は呆気にとられたように、黙ってしまいましたが、トキエから銚子を差出されると、てれたように頭をかいて、それからまた飲み初めました。トキエは嬉しそうな様子でした。暫くたつと、三味線をかりて弾いたりしました。私は白けた気持になって、酒の酔だけが身内に残って、脇息を横倒しに枕にして寝そべっていましたが……どうした調子でか、トキエが眼に涙をためて、芸者に酌をさしてぐいぐい飲みだしたのが、眼につきました。子供のこと……ミヨ子のことと、彼女の腹の中にある者のこととが、頭にきて、私は飛び起きてその杯を奪いました。箸で小皿の縁を叩いて朦朧と歌っていた小野君が、不公平だとか専横だとか云い出したのを耳にも入れずに、私はじっと彼女を見ますと、彼女もそのうるんだ眼で私を見返しました。どうも、昔初めて逢った時のような……そんなことは覚えてはいませんが……親しみの薄い眼付です。そうです。私は妙に淋しいんでした。酒をぐいぐいあおって、三味線をじゃんじゃん弾かして、そして立上りました。何かかんかぐずってる小野君を置いて、さっさと帰っていきました。自動車の中で、トキエの手を握っていると、涙ぐましい気持になって、そして遠くで、ぽつりと、真剣な気持が動いてました。……そして彼女の室に戻ると、私はその温い肉体にすがりついていきました。甘ったれたようなばかげた気持でしたが、やはり遠くに、何か真剣なものがありました……。彼女はいつもの彼女に返って、落着いた微笑を浮べていました。
「どうかなすったの。」
 それきりで、私の返事も待たずに、彼女はまた笑顔をしました。
 彼女は仕合せかどうか、こんな暮し方をしていて不安ではないか……私はそう尋ねようとしましたが、彼女の返事が分りきってるので、やめました。仕合せだと云うにちがいありません。その分りきってることが……それだけでいいのかと、自分のことになって、不安になるのです。誰かがんと殴り倒してくれる者があったら……私を?……彼女を?……いや、それよりも、私達はもう別れられなくなっているのを、私は現実にそして憂欝に感じていました……。一体私は何を求めていたのでしょう……。



底本:「豊島与志雄著作集 第三巻(小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23])」未来社
   1966(昭和41)年8月10日第1刷発行
初出:「文芸」
   1935(昭和10)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年5月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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