をつきました。
「どうも……素敵だなあ……むずかしい。」
 そして赤ん坊の方に歩み寄って、大きな指先で、頬辺をつっつきました。赤ん坊の顔は、くしゃくしゃになって、それから波が消えるように静まり返って、大きな黒い眼をぱっちり開きました。
「あら、起っきしたの。」
 トキエが笑いかけて、小野君の絵のことなんかお構いなしに、抱き上げてしまいました。そして真赤な布団の代りに、やはり真赤なちゃんちゃんこにくるんで、乳を含ませているのを、小野君も私も、ぼんやり眺めました。
「だめだなあ……奥さんは。」
「だって、あまり長いんですもの。……ねえ、可哀そうね。」
 子供にそう呼びかけておいて、彼女は笑っていました。
 その日はそのままきりあげて、翌日も一度小野君はやって来ました。私が行った時は、もう絵は終りかけていました。小野君のうちには、前日とちがって、熱っぽい真剣さが見えていました。眼付が鋭く……恐らく前日来何か頭の中で模索し続けたのでしょう……顔付もとげとげしているようでした。最後に筆を投じて、じっと画面を見つめて、それから不満そうに口を尖らしました。画面には荒っぽいタッチで、子供の顔だけが書かれていて、布団やなんかほんの輪廓だけでした。その顔は、赤ん坊にはあまり似ていませんでしたが、何かこう、頬のあたりに生きて動いてるものがあって、殆んど筆をつけてない眼瞼のあたりに、空虚な点が残されています……。私にも、未完成だなという気がしました。
 小野君はもう赤ん坊の方は振向きもしませんでした。それでも、トキエに引止められると、辞退しないで、私と共にビールのコップを取上げました。そしていい加減飲んでから、私は、絵具箱とスケッチ板の大きな包みをさげてる小野君を引っぱって、夕飯をくいに出かけ、また酒をのみました。何だか変に気懸りなものがあって、酔えませんでした。小野君もなんだかむっつりしています……。
 その晩、小野君と別れて、私はミヨ子のために、初めて……全く初めて、玩具店へよりました。そして小さな彼女へ、木やセルロイドの玩具を幾つか買い求めました。
 ミヨ子は眠っていました。トキエは私ににっこり笑ってみせて、玩具を子供の枕頭に並べました。一つ一つ取上げては、そっと打振ってみたり、あちこち眺めたりして、まるで自分が子供のようで、そしてそれを子供の枕頭に並べるのです。その姿を、私は久しぶりで美しいと思いました。白い歯なみが可愛く、黒目のうわずった眼付が変に心を惹くのです。だが……そうです……心を惹くだけで、ひどく私自身とは縁遠いものに思われ、そしてそう思えば思うほど、そこに、赤い布団にくるまってすやすや眠ってる赤ん坊が、私の胸の奥に触れてきて、哀切な感情をかきたてます。戸籍上父のない子供だとか、世間に隠されて生れたのだとか、そういう事柄ではなく、先刻小野君の画面で見たように、魂の窓とも云うべき眼のあたりが空虚な、そして柔かな生々とした温い頬の、なんだか不具的な存在、可哀そうな存在……そういう風に胸に触れてくるんです。私はその方ににじり寄って、頭をなでたり、頬をつっついたりして、それから、ぱっちり見開いた眼の中を……澄みきった闇がたたえてるような深い中を……覗きこみ、その顔がくしゃくしゃになって泣き出しそうにすると、酒にほてった自分の顔をくっつけて、乳くさい匂いを貪るようにかぎました。
 それからは、私はやって来る度に、何か玩具を必ず買って来ました。ミヨ子はまだ生れて数ヶ月しかたたず、玩具が分るかどうか、ただその色彩の反映を黒い眼にうつすきりでしたが、それでも、足をぴんぴんさして、訳の分らない声を立てました。私はそれを抱きとって、天井の低い二階の室の中を、あきずに歩き廻ったりしました。トキエは、私のそうした変化を訝りもせず、凡てを落付いた笑顔で受け容れていました。
 そしてるうち、或る晩、小野君に出逢うと、少し酒の勢をかりてから彼は、それでも云いにくそうに、も一つ頼みがあるんだがと、躊躇しいしい云うんです。
「どうも……赤ん坊はまだ、僕の力ではだめだ……お母さんに抱かれてるところなら、何とかなりそうだが……奥さんに聞いて貰えないかしら。」
 私は長い間黙っていました。奥さんという言葉の変な響きなどは、すぐに消えてしまったほど、他のことに気を奪われてるのでした。
「そりゃあ、聞くまでもなく、いいというにきまってるが……。」
 ええ、いいわ……そういう彼女の調子までが、はっきり私の耳に聞えていました。
「例えば……かりに、君が一寸彼女に云い寄ったとしても、屹度、ええいいわ……と云うにちがいない……。」
 小野君は呆気にとられて、それから、次には嫌悪の表情を浮べました。
「ばか……そんな……。」
 全く、そんなことでは、実はなかったのです。もう別れようか、と私が云うとしたら、ええいいわ、と彼女は答えるでしょうし、一緒に死のうか、と私が云うとしたら、ええいいわ、と彼女は答えるでしょうし、而も、理由もきかず、涙も流さないでしょう……そうして彼女に対して、私は嫉妬に似た苛立ちを覚えていたのです。たとえ子供を抱かしたところで、彼女にはしっくりした母性なんか出てこないでしょう……。
 私の説明をきくと、小野君は、怒った眼付で私を見据えました。
「そんなら、君達はどういう気持で生きているんだ。芸者をやめさして、家を一軒もたして、子供まで拵えて、そしてそんな……まるで……。」
 そうです、まるで動物みたいです。愛とか……生活とか……そんなことは考えもしませんでした。非難は私に向けられるのが当然かも知れません。けれど、私は彼女を愛してはいました。彼女の出産前後も、殆んど貞節を守り、いつまでも、彼女に倦きるということはなさそうでした。そしてまた、彼女の生活についてこそ、これからどうするつもりかなどと、不安をも覚えたのです。ただ、それらのことを、はっきり、意識的に、指導的に、考えなかっただけのことです。いつでも、どうにでもなるだけの、時間と金と、安楽な地位とがあったのが、いけないのでしょうか。そうだ……と小野君は断言します。がそれよりも、私が驚いたことには、彼は何か腹を立てていました。一体芸術家なんてものは、得手勝手な、不道徳な、享楽的なものだと、私は思っていたのですが、その時、小野君の激しい一図な気性にふれて、私は眼をみはりました。君はばかだ、君達は生きてるも死んでるも同じことだ……なんかと彼は怒鳴りたてます。そうかと思うと、また調子が変って、自分は以前或る女と恋しあったが、相手がひどく理知的で、自意識が強く、愛だの芸術だの理想だの……人生の目的だの、そんな議論ばかり繰返してるうちに、とうとう別れてしまったと、変に感傷的に涙ぐんでさえいます。要するに、二人とも酔っていました。高価な苦しみを苦しまなければいけない、高価な戦を戦わなければいけない……そんなことを叫んだり、互に小突きあったり、握手をしあったりして、私もひとっぱし芸術家気質になりすまして……もうぬるま湯のような生活はすてようと私は云い、あの女を殴りつけ魂を呼びさましてやると彼は云い、よし行こうというので、出かけましたが、少し歩いてるうちに、こんな時は、街に落ちてる天使でも拾った方がいい、思いきって泥濘の中を覗きこむ時、本当に清純な反抗心が起るものだと、その議論になって、そのうちいつしか二人別れ別れになり、私は家に戻ってしまいました。
 翌日、宿酔の気味で、私はぼんやりしていました。鼻のつんと高い口許のしまった、インテリめいた女給の顔が、思いがけなく頭に浮んできたり、心の底に、ちらちらと、捉え難い火花が閃めいたり、もう息をするのも嫌なような、深い憂愁に沈んだり……なんだか自分で自分が分らなくなっていますと、午すぎに、小野さんから電話です。はっとして、急いで立っていきますと、電話の主はトキエで、子供が病気だからすぐに来てくれと……。
 行ってみると、トキエはいつもの落着いた様子で、すみませんと、笑顔をしています。だが、子供は九度以上の高熱で、かっとほてって、そして水分の乏しいようなしなび方をして、昏々と眠り、時々手足の筋肉を、ぴくりぴくりさしています。前々日の晩から熱が出て、乳ものまず、肺炎らしいとのことでした。私はそれを、胸にぎゅっと抱きしめたい衝動にかられました。胸に裸のまま抱きしめて、この自分の身体でもって、あらゆるものから防護してやりたいのです……。
 夕方、医者がまた来まして、危険な状態とのことでした。私は万一を慮って、小野君に速達便を出し、手筈をきめておいて、家にかけ戻り、小野君が伊豆の方に絵を書きに行くからついて行くことにした……二三日、という風にとりつくろいました。なさけない半ば捨鉢な気持が動いていました。
 夜半に、子供は乳を求めだしました。一口二口吸っては、またぐったり眠り、暫くするとまた乳を求めます。そういうことが、二時間ばかり繰返されて、あとはもう死のように静かな眠りとなりました。私は始終氷をかきに立ち働きました。トキエは子供の側に、膝をくずして坐っていました……乳をやるために、そしてその顔を見守るために。全く、それだけが彼女の仕事のようでした。その泰然とした、そして滑かな美しい肉体のなかに、どういう考えがあるか、私は探ろうとしましたが、何にも掴めませんでした。彼女は時々、心持ち眉をひそめた眼付を私の方に向けましたが、私達は別に話すべきものも持っていませんでした。時折、表を自動車が通って、その響きが室に伝わる度に、私は子供の寝息をうかがい、そして何ということなしに立上ったりしました。窓からすかしてみると、深い霧の夜で、空気には絹針のような秋の冷えが感ぜられます。もう夜明け近いのでしょう。私はトキエを少し眠らせようとしましたが、彼女はうなずいたきりで、別に眠たそうな様子もなく、静に坐りつづけています。私はうとうとしたり、はっと眼をさましたり、何かに驚いて飛び上る心地になったりしました。子供の唇にはもう血の気が見えませんでした。
 翌朝、小野君が来てくれた時には、私はただ奇蹟を待つだけのような気持になっていました。
 その夕方、子供は静に……消えるように、死んでいきました。ミヨ子という名ばかりで、何かを……恐らく混沌としたものを、見たり聞いたりしただけで、意味のある言葉は一言も云わずに消えてしまったのです……。そしてその夜、小野君が遠慮して帰っていってから、トキエは、子供の真赤な布団の中にすべりこんで、その死体をだいて横になりました。私は涙ぐみながら、怒って、叱ってやりました。そんなことをするものではない、死体を抱きかかえるくらいなら、病気にならないように、用心してやるべきだったと……。
「だって、お医者様も、仕方がないって云っていらしたわ。あたし、なんだか、この子は初めから寿命がないような気がして……やっぱりそうだったのね。小さい時、お祖母さんが御病気の時に、あたし聞いたことがあるわ、世の中には大きな潮の流れみたいなものがあって、むりに逆らおうとすると、却って溺れるばかりだって……。お祖母さんは、ほんとにあたしを可愛がってくれたのよ……。」
 それが、二十を二つ三つ越したばかりの、肌のなめらかな小柄な若い彼女と、しっくり調和してるのでした。そういう若さがあるものです。而も彼女はもう母親で、死んだ子供の身体を抱いて、その冷さも感じないらしく、ぼんやり夢想しています。天井が低く、薄暗く、窓硝子はよごれ、障子や襖の紙は古ぼけていて、その中に、ぱっと真赤な布団に、死体を抱いて横になってる若い彼女……そうした室の中を、私は惘然と見廻して、何かしら大きな声で、泣くか怒鳴るかしたい気持に駆られました。階下では、小女がことことと、何か片附物をしていました。
 坊さんの仏事を一通り辛棒し、万事は葬儀屋に頼んで、それから小野君を交えて三人でミヨ子を骨にしました。初七日がすむと、トキエは子供の遺骨を葬りに、久しぶりに母へも逢いに、名古屋へ行ってくることになりました。私に一緒に来てほしいような様子も見せ
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