決して質入れするんじゃあない、どうせ受出せないんだから、質流れのつもりで、それだけ金をかしてくれ、その代り、確かに僕自身の作品だよ、とそんなことを云う愉快な男でしたが、それが或る時、どこから聞いたか、私とトキエとの間に赤ん坊があることを知って、その赤ん坊の寝顔をスケッチさしてくれないかと頼みました。私は当惑しましたよ。第一、トキエのことばかりでなく、赤ん坊のことなんか、誰にも秘密にしておいたのですし、その隠れ家に友人を案内するなんか、とんでもないと思いました。然し小野君は至って真面目で真剣です。どこに行っても、赤ん坊の寝顔のスケッチは、何か迷信か、それとも気持の上でか、嫌がられて許して貰えない。君のところは、どうせ隠し児だろうから、逆に厄払いという意味で、ひとつ自分に傑作を拵えさしてくれ……。そういってむりに頼むものですから、母親にきいてみよう、とまあ一時遁れをしましたが、後で、トキエに話してみますと……。
「ええ、いいわ。」
いつもの通り、簡単明瞭です。一体この女は……と思って、その顔を眺めますと、あの黒目のうわずった妖しい眼付で、何の屈託もなさそうに笑っています。そこで私も、今迄気にやんでいたのがばかばかしくなって、小野君に傑作でも書いて貰った方が却ってこの児のためにいいかも知れない……などと考えるようになりました。
私が小野君を連れてゆくと、トキエは、別に興味も示さず、また気後れも見せず、以前お座敷での時と同じように、平然と迎えました。そして二階の、日差しの悪い室で、すやすや眠ってる赤ん坊の顔を、小野君は大きな絵具箱を開いて、描き初めました……。
一体、絵が書かれてるところを見ると、私はいつも不思議な気がするんですが……物の形が次第にととのってくるというのではなく、しっかりした腕前の人であればあるほど、ぽつりぽつりとばらまかれた色や線が、ひとりでに生き上って、ひとりでに動きだして、その物になってゆく……そんな感じを受けるんです。小野君の画布の上には、全体が赤の色調をもった、そして所々淡く紫がかった、いろんな線や斑点がばらまかれて、それが今にも一人で動きだして、何かになろうとしています……。見ると、赤ん坊はすやすや眠っていて、真白な着物を着、枕も布団も真赤なもので……丁度人形のようでした。小野君は描くよりもじっと眺める方が多くて、やがて絵筆をすてて大きく息をつきました。
「どうも……素敵だなあ……むずかしい。」
そして赤ん坊の方に歩み寄って、大きな指先で、頬辺をつっつきました。赤ん坊の顔は、くしゃくしゃになって、それから波が消えるように静まり返って、大きな黒い眼をぱっちり開きました。
「あら、起っきしたの。」
トキエが笑いかけて、小野君の絵のことなんかお構いなしに、抱き上げてしまいました。そして真赤な布団の代りに、やはり真赤なちゃんちゃんこにくるんで、乳を含ませているのを、小野君も私も、ぼんやり眺めました。
「だめだなあ……奥さんは。」
「だって、あまり長いんですもの。……ねえ、可哀そうね。」
子供にそう呼びかけておいて、彼女は笑っていました。
その日はそのままきりあげて、翌日も一度小野君はやって来ました。私が行った時は、もう絵は終りかけていました。小野君のうちには、前日とちがって、熱っぽい真剣さが見えていました。眼付が鋭く……恐らく前日来何か頭の中で模索し続けたのでしょう……顔付もとげとげしているようでした。最後に筆を投じて、じっと画面を見つめて、それから不満そうに口を尖らしました。画面には荒っぽいタッチで、子供の顔だけが書かれていて、布団やなんかほんの輪廓だけでした。その顔は、赤ん坊にはあまり似ていませんでしたが、何かこう、頬のあたりに生きて動いてるものがあって、殆んど筆をつけてない眼瞼のあたりに、空虚な点が残されています……。私にも、未完成だなという気がしました。
小野君はもう赤ん坊の方は振向きもしませんでした。それでも、トキエに引止められると、辞退しないで、私と共にビールのコップを取上げました。そしていい加減飲んでから、私は、絵具箱とスケッチ板の大きな包みをさげてる小野君を引っぱって、夕飯をくいに出かけ、また酒をのみました。何だか変に気懸りなものがあって、酔えませんでした。小野君もなんだかむっつりしています……。
その晩、小野君と別れて、私はミヨ子のために、初めて……全く初めて、玩具店へよりました。そして小さな彼女へ、木やセルロイドの玩具を幾つか買い求めました。
ミヨ子は眠っていました。トキエは私ににっこり笑ってみせて、玩具を子供の枕頭に並べました。一つ一つ取上げては、そっと打振ってみたり、あちこち眺めたりして、まるで自分が子供のようで、そしてそれを子供の枕頭に並べるのです。その姿を、私は久しぶ
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