のようではありましたが、地所と家作との一部を、親父に内緒で抵当に入れて、少しまとまった金を拵えました。そして間口二間ほどの小さな商店を譲り受け、多少手を入れ、御菓子化粧品の店にして、彼女を住せました。親元身請ということにして、そっと落籍さしたのです。そして彼女は、とき弥から本名のトキエとなって、新らしい店の女主人となりました。一階の庇の上、二階の窓の前に、「御菓子化粧品」という大きなペンキ文字の看板をかかげ、店にはいい加減に品物を並べ、御菓子にしても化粧品にしても、手のかからない小綺麗なものばかりで、小女を一人おき、二階は八畳に六畳で、そこが彼女の室でした。すぐ近くに魚屋もあり酒屋もあって、いつ私が行っても不自由しませんでしたよ。
新らしい生活のなかでも、トキエは何の窮屈も不安も感じないらしく、ただぼんやり微笑んでいました。朝は遅く、隣近所の店がすっかり片附いてしまった時分に、漸く戸を開いて、それからゆっくりと、十時頃までかかって化粧品の壜などを置き並べ、夜は遅く、人通りもなくなりかけた十一時すぎに、店の戸をしめるのでした。髪結にだけは、元いた土地まで出かけて、洋髪や丸髷にいって来ましたが、それだけが殆んど仕事で、もう長唄の稽古もやめてしまいました。
「一日、何をして暮してるの。」
「だって、いろいろ用があるわよ。」
そして安らかな笑顔をしていました。その同じ笑顔で、云いました。
「あたし……なんだか、身体の調子が変だわ。」
すすめて、医者にみせますと、引越してきてから一ヶ月日に、妊娠したらしいんです。それでも、別段驚きもせず、心配もせず、当然のことだとしてるようでした。そしてそのことがはっきりしてくると、やはり女ですね。いつどこで覚えたのか、毛糸の球なんか膝のあたりにころがして、気長に、赤ん坊の頭巾や胴着などを編み初めました。無事に月がたって、病院をひどくきらったのがただ一つの自己主張で、そしてその二階で弱々しい女の児をうみました。まるで、妊娠してお産をするために家を一軒もったようなものです。
その間、私はいろいろ気をもみました。女の腹の中に生育していくものに対する不安な恐れ、それは男が誰でも感ずる事柄で、茲に改めて云うには及びますまい。それから次に、生れてくる子供の戸籍のことでひどく頭をなやましました。母親は内々私の素行を感づいたかも知れませんが、それかって、年とってる両親に今更子供のことも頼みかねますし、私としてはトキエと結婚する気なんか少しもなかったのです。考えあぐんでは、彼女の眼にまでつくようになったらしいんです……。尋ねられて、私はそのことを打明けました。
「いいわ、あたしがいいようにしとくから……。」
彼女は事もなげに云って、微笑みました。そして名古屋の母とどういう風に話をつけたものか、子供は彼女の籍に入れることにきまりました。それについて、怨みがましいことも云わないで、後々の約束もなにも持出しませんでした。
――一体、どうするつもりかしら?
そういう疑念が、私の胸に起りました。いえ、それは前からあったのですが、その頃から初めてはっきりした形になってきた、という方が本当でしょう。
皺のよった赤いぶよぶよした、そして頭の毛だけが妙にこい……その、赤ん坊を、私は不思議そうに眺めました。不思議なだけじゃなく、不気味な気さえしました。がそれは、生れた時弱々しかったに拘らず、大して病気もせずに、育っていきました。母親の乳がよいのだそうでした。それでも彼女はのんきで、髪結に行く時なんか、子供は小女に任せたきりで、牛乳を一本買っておいて、ゆっくり遊んでくるのでした。前よりも、顔の皮膚などつややかになったようでした。
子供が一人ふえたきりの、相変らずの日々が続いていきます。トキエは遅く起き上って、ぼんやり微笑んで、夢想して……いや、夢想さえもしていないようです。ごくたまに、以前懇意だった芸者が二三人、子供を見に来るくらいで、殆んど訪れてくる知人もなく、こちらから訪れる知人もありません。子供はよく眠っています。店の方は名ばかりで、お菓子にせよ化粧品にせよ、一日十円ほどの売上がある時など、眼を見張ってびっくりしてるような始末です。夕方など、彼女は店先に立って、顔見知りの近所の人たちと、一寸挨拶とも噂話ともつかない言葉を交えることもありますが、すぐに引込んで、店の奥へよりも、二階の室にあがってしまいます。私が行くと、前日に来たばかりの時でも、五六日遠退いた時でも、同じような笑顔と落着いた態度で迎えます。
――一体、これから、どうするつもりかしら?
それが、次第に私の不安を大きくしていきました。
友人の画家の一人……大変優れた天分を持っていますが、いつもひどく貧乏で、余り困ると、私の親父のところに絵を持ってきて、
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