当り次第のカフェーに飛びこんだ。
カフェーの中は、がらんとしていて、そして変にぼんやりした明るみだった。まだ起き出たばかりらしい女給が、白粉気のない顔にぱっちりした眼をして出て来た。
「何にする。」
「さあ……ビールでも飲みたいけれど……あなたはこれからよそにいらっしゃるんだから……。」
「なに構わないよ。」
豌豆豆と果物とビール、それだけのものが淋しく置かれた冷い卓子《テーブル》を挾んで、私達は暫く黙っていた。それからビールに頭が刺戟されるにつれて、私も彼も次第に心がほどけてきて、話はいつしか先刻からの事柄に及んでいった。そして彼は次のようなことを話して聞した。
昨年の夏のことです。私のところへ小さな小包郵便が届きました。開いてみると、幾重にも新聞紙に包んだ十枚ばかりの原稿でした。その第一頁にこう書いてあるんです。
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このようなものでも小説になりますでしょうか。恐れ入りますが御覧下さいませ。
[#ここで字下げ終わり]
ただそれだけで、署名も何もありません。小包の表にも、差出人の名前がありません。
私は変な気持になりました。その当時、私はまだ雑誌に創作を発表したこともないし、世間にちっとも名前も知られていないで、ただ一人こつこつ下らないものを書いてるだけだったのです。その私へもってきて、無名の人から原稿を見てくれと送って来たのです。而も処番地も何も書いてないんです。誰だって一寸変な気持になろうじゃありませんか。その上、原稿の文字は綺麗な女文字です。
で私は、狐にでもつままれたような気持で、その原稿を読み初めました。すると……まあ原稿の内容から申しましょう。
それは題も何もない、小品風の小説でした。主人公は、或る空想的な、そして神経質な令嬢です。
その令嬢が――私が――或る晩ふと眼を覚して、余り蒸し暑いので、縁側の雨戸を少し開いて庭を眺めた。すると、庭の植込に一筋の光がさしている。おや……と思って見上げると、庭の板塀の彼方、小さな通りを越した、向うの家の窓から、赤々と電気の光がさしている。窓と云っても、四五尺の高さの広いもので、その窓の四枚の雨戸が、所々五六寸ずつ開け放してあって、その隙間から明るい室の中が見えていた。なおよく見ると、室の中に髪の毛の長い青年がつっ立って、あちこちに歩き廻っていた。
私は不思議に思って、暫く眺めていた。すると青年は、室の中をぐるぐる、いつまでも同じように歩き続けている。いつまでも、いつまでも、歩き続けている。
とうとう自分の方が根気負けがして、そっと戸を閉めて床にはった。けれども、眼が冴えて眠れなかった。あの人は何をしてるんだろう……と、そんなことが頭に絡みついて、夢現の中にまで考えられた。
それから長くたってから、私はまた起き上って、雨戸を開けて覗いてみた。すると向うの窓の中の人は、まだ同じように室の中をぐるぐる歩き廻っていた。いつまで見ていてもきりがない。で私はまた寝てしまった。
そんなことがあってから、私は向うの二階の人に、それとなく注意を配った。二十二三歳の、髪の長い、顔の蒼白い、痩せた神経質な人で、学校に行ってるのでもなく、昼間は大抵室の中に寝転んでるらしく、夕方になってどこへか出かけてゆく。そしていつ帰るともなく、恐らくは夜遅くだろうが帰ってきて、それから、机に向って勉強をしている。そして夜の一時二時頃になると、大抵いつも、檻の中の虎みたいに、室の中をぐるぐる歩き続ける。一時間も二時間も、恐らくは夜明け頃まで、同じようにぐるぐる歩き続けている。そして朝は十時頃まで雨戸がしまっている。
不思議な人があるもんだ……と私は考えた。だけならいいけれど、夜更けの室の中をいつまでも歩き続けてることが、妙に私の気にかかり初めた。私は度々夜中に眼を覚すようになった。眼を覚すと縁側の戸を開けて、向うを覗かずにはいられない。覗いてみて、向うの窓の戸が閉ってるか、人影が見えないかすると、私はほっと安心する。けれど、大抵はやはり、檻の中の虎みたいなその人の姿が見える。顔付は分らないけれど、髪をくしゃくしゃに乱して腕を組んだり頭を振ったりしているところを見ると、多分眉根に深い八の字を寄せて、怒った恐ろしい顔をしてるに違いない。そしていつまでもいつまでもぐるぐる歩き廻っている。……。
それがだんだん私の気にかかって来て、私は夜もよく眠れないようになった。そしていつしか神経衰弱になりかかった。気分が始終苛立って、そのくせ、すぐに涙が出たり大声に笑いたくなったりする。
そして或る夜、私はもう我慢が出来なくなって、父の書斎からピストルを盗み出してきた。縁側の雨戸を開いて見ると、やはり向うの窓の中に、あの人がぐるぐる歩き廻っている。私はそれに向ってピストルを狙った。が
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