なれる。安心して生き……られる。」
信子が突然声を搾って泣き出した。堪《こら》えていた気分が張り裂けると、嗚咽の声と涙とが止度《とめど》なく送り出て来た。彼女は身を投げ出して泣き伏した。咽び上げる度に、束髪の櫛の宝石玉が、電気の光りに輝いた。木下は啓介の腕を捉えながら、その輝きを眺めた。
「僕の心は晴々としている。」と啓介は云った。「生き返ったようだ。遠くが見えてくる。」
その言葉は残忍な調子を帯びていた。信子はぴたりと泣き声を止めた。木下は云い知れぬ恐怖を感じた。彼は信子を呼び起そうとした。頭を上げる拍子に、髪の毛が垂れ下って眼にかぶさった。彼は頭を振ってそれを払いのけた。……その時、啓介は歯をくいしばって、踊るように両手を高く上げた。拳を握りしめていた。両の眼が寄っていた。軽い痙攣が襲った。
木下は彼を床に寝かした。上から両手を押えつけた。信子は看護婦を呼んだ。高子はすぐにやって来た。
痙攣が去ると、啓介はぼんやりあたりを見廻した。それから、うとうとと眠りに入った。足の先が冷えていた。婆やを起して、湯たんぽの湯を沸《わか》さした。三人は夜が明けるまで枕頭についていた。
十
軽い痙攣が明け方にも一度啓介を襲った。
熱は比較的低かった、三十八度四分にすぎなかった。然し脈搏が非常に不整で百二十五を上下した。呼吸も同じく不整だった。喉の奥で痰を絡んだ荒い呼吸になったり、小鼻を脹らましてすーっと引く弱い呼吸になったりした。
雨戸を開けると、外は明るくなっていた。風が止んで空が綺麗に晴れていた。清らかな空気が隙間から室内に流れ込んできた。啓介は眼を開いて、側に来るように木下に相図をした。
「母に逢いたい。」と彼は云った。
「呼んで来て上げる。少し待ち給え。」と木下は答えた。
八時頃本田医学士が婆やの迎いで見舞って来た。彼は容態表を見ながら云った。
「ほう、どうかしましたか。」
誰も答えなかった。
診察を済すと彼は、ヂガーレン注射を日に八回行うように看護婦に命じた。それから頓服薬の処方を書いた。
本田が辞し去る時、木下は彼を画室に呼び込んだ。
「容態は如何でしょうか。」と木下は急き込んで尋ねた。
「なに今のままなら危険というほどでもありますまい。脈搏がわりにしっかりしていますから。勿論その方の手当はしていますが。肺炎の方は以前と同じ状態です。これが少し拡がり出すと困難ですがね。……もし御心配なら、私の病院の院長に診て貰われたら如何です?」
「いえ、別にそういうわけではありませんが、実は、病人が母に逢いたがってるものですから。」
「ではすぐに呼んだらいいじゃありませんか。遠いのですか。」
「上野です。」
「上野! どうして今まで呼ばなかったのです?」
木下は事情を話さなければならなかった。彼は手短かに、信子の恋愛事件から両親との衝突を物語った。
「分りました、」と本田は云った、「そうですか、私も何だか変だとは思っていましたが。……そして何時から病人は母に逢いたがっています?」
「今朝からです。」
「今朝から?」
本田は何か考え込んで、煙草を取り出して火をつけた。そして云った。
「別に障りはしますまい。逢わしたらいいでしょう。……然し前から、非常に精神が興奮してるようですね。」
「ええ、他に事情もあったものですから。」と答えて木下は頭を垂れた。
「なるべく静にさして置かなければいけませんね。」
二人は暫く黙っていた。
「では兎に角こうしましょう。」と本田は云った。彼は三時頃病院の用がすむので、その帰りにいつもより早めに立寄ること、そしてその頃病人の母にも来て貰うこと、なるべく多く口を利かせないこと。「痙攣はもう来ますまいが、余り精神に激動を与えて、ひどい脳症でも起されると困りますからね。」
「あれで、病気が癒っても精神が変になることはありますまいか。」
「なあに、それほど心配するには及びません。」
木下は涙ぐんでいた。彼は、落付いた親切な医学士を、しみじみと感謝の念で見上げた。本田は立ち上った。室の中に懸っている絵を一巡見廻わした。それから、黙って出て行った。木下は急に深い淋しさに襲われた。無関心に眺められた自分の製作を、彼はじっと見やった。室の隅に裏返しに立てかけてある画面が眼にはいった。赤く塗りつぶした樫の絵だった。彼は云い知れぬ衝動を受けた。いきなりカンヴァスを取り外して、ずたずたに引き裂いた。
彼は狼狽してる自分を見出した。じっとして居れなかった。画室から飛び出してすぐ病室に行った。信子と看護婦とが、同時に彼の顔を見上げた。彼は荒々しい顔付で、啓介の上に身を屈めた。
「お母さんを呼んできてあげるから、待っていてくれ給え。大丈夫だ。医者は君の容態は心配ないと云っていた。」
啓介は眼付でうなずいた。
木下はすぐに外出の用意をした。先ず丸の内の会社に、啓介の叔父の河村氏を訪ねた。それから上野の自宅に、河村氏と一緒に啓介の母の雅子《まさこ》夫人を訪ねた。
十一
約束の午後三時少し過ぎに、雅子は河村に連れられて、木下の家にやって来た。木下は二人を先ず画室の方へ通した。
「今朝からずっと落付いてるようです。」と木下は云った。
雅子は終始伏目がちにして肩をすぼめながら、あたりに気を配ってるらしかった。真黒に染めた髪を小さく束ねて、縫紋の渋い色の羽織を着ていた。木下はその羽織に対して妙に心が落付けなかった。河村が煙草を取り出して火をつけた時、彼は云った。
「どうか病室の方へ。」
河村は火をつけたばかりの紙巻煙草を、一口吸ったまま灰皿の上に捨てた。そして先に立って病室の方へ行った。前に二度来たことがあるので、彼は家の様子はよく知っていた。
信子を病室に置いておかない方がいいだろうと木下は思っていたが、却って居る方がいいと河村はその朝云った。
啓介は静に仰向に寝ていた。枕頭に看護婦がついていた。信子は室の隅に小さく坐っていた。
雅子は室の入口に一寸立ち止った。中の様子に慌しい一瞥を投げると、そのまま軽く頭を下げて、つと身を飜しながら、啓介の病床の側まで歩いてゆき、其処にがくりと膝を折って坐った。啓介は徐ろに視線を移して、母の顔を一目見たが、ちらと瞬きをして、眼を外らした。
「啓介さん、私ですよ! 私が……。」雅子は声を喉につまらした。いきなり両手を顔に持っていって、その掌に顔を埋めた。室の中がしいんとなった。
「お母さん!」と啓介は低い声で囁くように云った。眼をつぶっていた。
落入るような沈黙が続いた。雅子はやがて、小さなハンケチを取出して、眼を拭いた。それから啓介の病床の裾の方を向いて、低く頭を下げ、誰にともなく云った。
「種々御世話様になりまして……。」
信子は益々低く頭を垂れて、襟に顔を埋めていた。木下はその様子を一寸顧みた。火鉢の上に身を屈めて、炭火をいじり初めた。よく熾った火を高く積み上げては、またそれを壊した。しまいには火箸の先で灰をかき廻した。
河村は病人の枕頭に廻って、容態表を覗き込んだ。
「なるほど、余りよくないね。」
雅子は床の間の机の上に並んでいる薬瓶に視線を据えていた。河村の言葉を聞くと急に眼を伏せた。
「心配することはありませんよ。」と彼女は云い出した。「何にも考えないで、静にしているんですよ。木下さんの御話では、病気もそうひどくはないそうですからね。私もついていてあげます。前のことは何にも考えないがよござんすよ。ただ早く癒ることばかり考えてね。皆《みん》なでついていますからね。あなたが病気のことを聞いて、私も早く来たかったけれど、種々……ね。誰も怨んではいけませんよ。」彼女は涙ぐんでいた。「お父さんも初めは怒っていらしたけれど、……私としても、あなたが余りなことをするものだから、……でも決して放りっぱなしにしたわけではありません。あなたが家を飛び出してから、お父さんは何を云っても黙り込んでばかりいらしたし、私もしまいには黙り込んでしまって、御飯《ごはん》の時だって一口も口を利かないことがありました。苛ら苛らしたり急に沈み込んだりして……。」
「そんなことはいいじゃありませんか。」と河村は彼女を引止めた。
「でもね、心では、」と彼女は云い続けた、「みんなあなたのことを許してあげています。お父さんには私からよく云ってあげます。今日私が出かける時、お父さんはそわそわして、家の中をぐるぐる歩き廻っていらしたのですよ。病気さえ癒れば宜しいんです。何もかも私が承知していますからね。あなたは仕合せですよ。みんなでこうして……ほんとにあなたは仕合せですよ。」
彼女は涙をはらはらと膝に落とした。
「お母さん!」と啓介は叫んだ。
皆黙っていた。どうにも仕種がなかった。河村は氷嚢吊りの台木に片手でつかまっていたが、ひょいと立ち上って、木下と向い合って火鉢の側に坐った。看護婦はふと思いついたように、枕の氷を取り代えに立っていった。雅子は彼女の後を見送って、そのまま室の中を見廻した。信子が一人離れて坐っていた。信子は低くお辞儀をした。雅子も礼を返した。河村はその時、何か言葉を喉元まで出しかけたが、凡てに無関心なまでに深く考え込んでいる木下の顔を見て、口を噤んでしまった。看護婦は中々戻って来なかった。深い沈黙が落ちてきた。啓介は眼を閉じていた。
看護婦が氷枕を下げて戻って来ると、「あり難う、」と啓介は云った。
その言葉に河村は顔を上げて人々を見廻した。
「今日は実にいい天気ですね。」と彼は云った。「こんなだと、今年はわりに春が早いかも知れませんよ。私は春が一番好きです。家にじっとしてるのもいいし、昼寝をするのもいいし、外を歩くのもいいし……。そうそう、啓介は覚えてるかね。私が十二三で、啓介は五つか六つだったでしょう、よく中野や目黒あたりに出かけたもんです。あの辺はまだ全くの田舎でしてね。」そして彼は、その頃の話を一人で饒舌り続けた。「啓介がどうしても私に負《おぶ》さるといってききません。私もやけになって、啓介を負《おぶ》ったままむちゃくちゃに馳け出すと、切角腹一杯つめ込んでおいた筍飯を、すっかり吐いてしまったことがありましたっけ。それから……。」
河村はふと不安な気分になって、話を止してしまった。皆が、ぽつりぽつりと置かれた将棋の駒のように黙って坐っていた。
四時頃に本田医学士が来た。木下が玄関に出迎えた。本田は玄関に並べられた下駄を見ながら云った。
「用事のために少し遅くなりましたが、皆来ていられるようですね。どうでした?」
「却って宜しかったようです。」と木下は答えた。
「そうでしょう。人の感情には程度があるもので、如何《どん》な場合にも身体に障るほど激動することは、まあないですね。」
彼はつかつかと病室にはいっていった。
午後一時半の看護婦の検査によると、熱三十八度六分、脈百十、呼吸二十六、であった。本田は暫く脈を診て考えていた。懐中電灯を取り出して足先を細かに検査した。診察を済すと、カンフルを右胸に注射した。それから、病人の顔を眺めながら、腕を拱いて長い間考えていた。そして一寸眉を挙げた。頓服薬はまだのんでいないかと尋ねた。まだと看護婦が答えた。彼は新たに頓服薬の処方を書き変えた。時計を出してみて、四時半少し過ぎであるのを見た。今から一時間ばかり後に夕食をやって、食後一時間半ばかりして頓服薬をやるように命じた。そして、翌朝の尿を取って置くように命じた。
彼はやがて辞し去った。木下と雅子と河村とが玄関まで送ってきた。靴をはきながら彼は云った。
「悪い方ではありません。あれで落付くでしょう。今晩はよく眠らした方がいいですね。余り大勢より、看護婦か誰か一人起きていれば充分でしょう。」
病室に帰ると、皆はまた沈黙がちになった。木下と河村とは画室の方へ出て行った。信子は婆やと共に食事の仕度にかかった。
人が居なくなると、啓介は大きく眼を見開いて、母の顔を眺めた。
「お母さん、済みません。」と彼は云った。
「まあ何を云うのです。もう済
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