いえ、今はいけません、今は……。」
「勿論今すぐではありません。待つのです、時期を。岡部君が少しよくなるまで……。」
「よくなったら……!」信子は息をつめて木下の胸に顔を埋めた。
 木下は彼女の手を離した。
「余り遅くなると岡部君が苛ら苛らするでしょう。あなたは此処にいらっしゃい。……行ってきます。」
 木下が出て行った後を、信子はじっと見送った。そのまま眼をつぶりながら、倒れるように椅子の上に身を落した。長い間身動きもしないでいた。それから俄に悪夢から覚めたように飛び上った。そして急いで病室の方へやって行った。
 木下は長くねそべっていた。啓介はしみじみと彼の方を見つめていた。室はいつもの通りに静かだった。信子は黙って炬燵のわきに坐った。そして二人の方を見ないようにして、炬燵の上に顔を伏せた。

     八

 啓介は夜中にふと眼を覚した。胸が悪くなるような感じのする昏迷の境に長い間※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いていた、と自ら思った。気がつくと共に、左腕の注射の跡がちくりと痛んだ。室内を見廻した。看護婦が炬燵に居眠りをしていた。信子が向うの隅に寝ていた。電灯の光りが妙に明るかった。水色の絹の覆いを通して、強い光りが室内に重く漲っていた。余りに明るかった。眼がきらきらと刺戟されて頭の奥が暗くなってきた……。その時、突然に、死の予感が彼に浮んだ。
 それは底の無い穴であった。限りない空虚だった。軽いそして安らかな闇が罩めていた。張りつめた世界の中に、ぽかりと口を開いていた。
 彼は驚いて、心でそれを見つめた。するとその穴は頭の奥の方へ引込んでいって、次第に小さくなっていった。天井と畳と壁や襖や障子やとで仕切られた四角な室の中が、余りに明るかった。頭の奥の暗い空虚な穴は、今にも見えなくなりそうだった。彼は眼を閉じた。すると俄に凡てが暗くなった。空虚な穴が大きく拡がりながら、表面に浮び出て来た。彼を呑みつくそうとした。彼は抵抗した。然し悶ゆれば悶ゆるほど、穴の底へ――底のない穴へ――沈んでいった。全身の力を搾って、ほっと眼を見開いた。と俄に、その穴は頭の奥へはいり込んで、次第に小さくなっていった。四角な室の中が余りに明るかった。彼はまた眼を閉じた。穴は大きくなって彼を呑み込もうとした。彼はまた眼を開いた。……いつまでも終ることのない反復だった。彼は空虚な暗い穴を恐れながら、それに心を惹かれていた。
 幾度も同じことをくり返しているうちに、彼の精神は疲労しつつ興奮していった。遂には、疲労の余り眠りに入り、興奮の余り眼覚めていた。夢とも現《うつつ》ともつかない境に長い間彷徨した。
 訳の分らない擾乱から彼がほっと我に返った時、室の中には信子が一人起きていた。いつのまにか看護婦と交代したものらしい。彼女は室の隅に眼を定めて、魂の脱殼のようにじっとしていた。毛の逆立った眉が真直に刷《は》かれて、其の下から黒い眼が覗いていた。窶れた頬に痙攣的な微笑のようなものを引きつらしていた。それらの顔立の上に乱れた束髪が大きな影を投げかけていた。……彼はその姿を見つめた。恐ろしくなった。「おい。」と呼んでみた。声は出なかった。再び「おい。」と呼んでみた。彼女は彼の方に顔を向けた。夢の中で見た女だという感じを彼は受けた。
「信子!」と彼は云った。取り失ったものに対する呼びかけの言葉だった。
 彼女は寄って来た。
「僕の手を握っていてくれ。」と彼は云った。
 その言葉は殆んど聞き取れなかった。彼女は彼の眼を見返した。そして意味を了解した。彼の手を握ってやった。
 彼は彼女の冷たい掌に自分の手を与えながら、一種の戦慄を感じた。以前愛のうちに自分と一つに溶け合った彼女、自分の一部であった彼女、――今自分の手を握りながら石のように固くなってる彼女。彼は、彼女が恐れているのを見た、恐れて看護婦を呼び起したく思いながら、敢てなし得ないでいるのを見た。彼は苛ら立ってきた。彼女が恐れて震えているのが感じられた。……そしてそのまま彼は手を任せ彼女はその手を握っていた。
 夜が明けて、信子が一寸室から出て行った時、啓介は起き上ろうとした。高子がそれを引止めた。木下がやって来た。啓介は耻しくなった。おとなしく頭を枕につけて、眼をつぶった。すると凡てが、何とも知れない凡てが、行きづまってしまった。行きづまった心で彼は、薬を飲んだ、重湯と牛乳とを飲んだ、注射を受けた。ただ一つの場合が、死という一つの場合が、あるがままの現在のうちに口を開いていた。彼はその場合のことに考えを集めた。
 生きるということは問題ではなかった。毎日同じような昼と夜、日々の区別さえもつかない一様な時の連続、張りきった限定された明るみ、――病室の空気のみが彼を囚えていた。それが彼にとっては生であった。それは「凡ての場合」であった。否場合という言葉を許さない、あるがままの現実だった。その中に死という「一つの場合」が浮んでいた。
 病に侵された彼の頭脳は二つの錯誤に陥っていた。彼の心に映じた生は、健康者のそれではなくて病者のそれであった。次に彼は、「凡ての場合」のために準備をせずに、「一つの場合」のために準備をしようとした。――彼は死の場合を見つめていた。終日口を噤んで静に寝ていた。珍らしく、木下を病室に引止めなかった、信子に対して温和だった。心が半ば闇に閉ざされていた。やがてその闇に呑み込まれる場合のために準備することは、却ってその闇から脱する途のように感ぜられた。彼は苦しくはなかった。「死」そのものに脅かされてはいなかった。「死に脅かされる場合」のために悩んでいた。そして堪らなく淋しくなった。何物かに縋りつこうとした。木下と信子との姿が遠くに立っていた。それを手近に引寄せたかった。眼をつぶると、気が遠くなるような重い後頭部の鈍痛から、暗い闇が襲いかかってきた。

     九

 朝から吹き出した風が、晩になると可なり激しくなった。夕方少し雨が降った。夜になって霽れた。湿っぽい寒い風が雨戸に音を立てた。婆やは早くから寝た。木下も、その日静かだった啓介の様子に少し安心して、早く床についた。
 啓介は眼を覚していた。風の音に聞き入っていた。頭の調子がぴんと張りつめて、凡ての事象が冴え返っていた。
「信子!」と彼は呼んだ。
「はい。」
「木下君は?」
「もうお寝《やす》みなすったようですわ。」
 暫く沈黙が続いた。
「信子!」と彼はまた呼んだ。
「はい。何か御用?」
「木下君を呼んでくれ。」
「でも、もう寝んでいらっしゃるから、明日になすったら。」
「いや今すぐに用があるんだ。話したいことがある。呼んでおいで!」
 思いつめた鋭い光りが彼の眼に籠っていた。信子は高子と顔を見合した。そして躊躇した。「気に逆らわない方がいいかも知れません、」と高子は囁いた。
 信子は木下を呼びに行った。木下は床にはいったまま眼を開いていた。彼は信子の姿を見ると、すぐに事情を直覚した。いきなり飛び起きて着物を着た。
「私何だか気掛りで……。」と信子は云った。
「大丈夫、安心していらっしゃい。」と答えて彼は彼女の手を握りしめた。
 病室に行くと、啓介は逃げてゆく幻を追うように、天井の隅を見つめていた。二人がはいって来ても彼は視線を動かさなかった。
 木下は妙にかしこまって坐った。
「どうかしたのか。」と暫くして木下は尋ねた。
 啓介はあたりを見廻した。
「いや、君に話したいことがあったが、後でもいい。」
「そんなら今云ってくれ給い。どんなことでも構わない。今丁度いいから。」
 木下の方が妙に急《せ》き込んでいた。彼は身を乗り出して、啓介の顔を覗き込んだ。
 風につれて遠く汽笛の音が響いてきた。啓介は俄に眼を見据えた。
「木下!」と彼は云った。それから室の中にぐるりと視線を動かした。「尾野さん、一寸外の室に行っててくれませんか。」
「じゃあ僕の室に行ってて下さい。」と木下は云った。
 看護婦が室から出て行くと、啓介は俄に荒々しい様子に変った。落ち凹んだ眼が上目勝ちに据っていた。呼吸の度に小鼻が脹れ上っていた。頬がこけて妙に大きく見える頤には、粗らな髯がかさかさに乾いていた。
「僕は死ぬかも知れない。」と彼は云った。調子は落付いていたが、或る圧倒し来る力に押し出されるような響きがこもっていた。彼はくり返した。「僕は死ぬかも知れない。それで、その場合のために用意をしておくのはいいことだと思う。」
 木下も信子も、何とも答えかねた。問題が余りに真剣であるのを彼等は感じた。啓介は云い続けた。
「木下、僕は君に大変迷惑をかけた。君の仕事の邪魔ばかりした。然し許してくれ。君一人が頼りだったのだ。君が居ないと、僕は淋しくて堪らなかった。側で君の顔を見ないと、君がどうしてるか分らなくなって、君を取り失うような気がした。僕は溺れていた。だんだん下の方へ沈んでゆく。何かに取り縋ろうとあせっていた。君は水に浮いてる藁屑だ。……藁屑だっていいじゃないか。僕がそれに縋りつこうとしていたんだ。信子も僕と一緒に溺れていた。僕を見捨てて一人で泳いでいる。苦しくなると僕につかまってくる。僕はそれを蹴放してやった。深い所へ沈んでいった。何処へ行ったか分らない。僕一人なんだ。監獄に禁錮された者の気持ちが、僕には想像出来る。真四角な室、堅い鉄の扉、息が苦しくなるほど狭い世界だ。誰かが僕に毒を盛ろうとしていた。僕は黙って横目でちらと見て取った。そして笑ってやった。すると……。」
 彼の言葉を遮らねければならなかった。木下は彼の手を握って、「岡部、岡部!」と云った。そして手を打振った。啓介は彼の方を顧みた。
「何だ?」
「君、落付いてくれ給い。」
 啓介は木下の顔を見つめた。それから、引きしめていた肩の筋肉をがくりと弛めた。
 沈黙が続いた。
「信子、」と啓介は云った、「額の氷を取ってくれ。」
 信子は木下の方を顧みた。そして啓介の額から氷嚢を取り去った。
「あり難う!」と啓介は云った。「……僕が礼を云ったからって気を悪くしないでくれ。お前に僕は、幾度あり難うと云いたかったか分らない。然しお前を心から取り逃したような気がしていた。お前の心持が僕には少しも分らなかった。そしていつも苛ら苛らした。僕の病気が悪いんだ。……お前は不幸な女だ。不幸なお前を、僕はいつもいじめてばかりいた。然し僕はどんなにお前を愛していたろう! 僕の心を木下君は知っていてくれる。そしてお前をも愛していてくれる……。」
 彼は急に口を噤んだ。そして空間に眼を据えた。小鼻で息をしながら、身動きもしなかった。それから木下の方を向いた。
「木下、僕の頼みをきいてくれ。僕が死んだら、信子を保護してくれないか。」
「僕が?」
「そうだ。君より外には誰も居ない。信子はどんな境遇に居るか、君はよく知ってるだろう。僕が居なかったら世の中に一人ぽっちだ。僕がもし死んだら……。」
「君は何を云うんだ。大丈夫だ。これ位の病気に死にはしない。」
「僕は死なないかも知れない。然し或は死ぬかも知れない。その場合の用意もしておかなくてはいけない。万一の場合にあわてたくない。信子を保護してくれ。」
「岡部!」と木下は叫んだ。「信子さんのことは僕が引受ける。だから静かにしてくれ、静かに。君は今が一番大事な時だ。」
 啓介は其処に身を起そうとしていた。木下が引止める手を払って、厳然と頭を振った。断平たる決意の色が、不可抗の力が、その顔に現われていた。彼の云うままに任せるの外はなかった。木下と信子とは彼の両腕を支えてやった。彼は上半身を起して、深い息をついた。激しい咳が襲ってきた。信子は彼の背中を撫でてやった。痰吐を取ってやった。吸飲の水で含嗽をさした。木下は彼の腕を捉えながら、頭を垂れていた。
「岡部、僕も君に云うことがある。僕は……。」
「木下さん!」と云って信子は彼の手に取り縋った。
「僕は、」と木下は続けた。「信子さんを愛している。」
「君達は互に愛するがいい。」と啓介は云った。「頼む。それで僕は、安心して死
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