突進的であった。而も、強くて退守的な啓介の心は、深い宗教的な雰囲気に包まれていた。弱くて突進的な木下の心は、苛ら立った現実的な雰囲気に包まれていた。二人はいつのまにか、遠い距離を距てて立っていた。
「木下、」と啓介は云った、「僕はもう何にも云うまい。ただ自分を恥しいと思う。……信子の心に自由な途を歩かしてやろうじゃないか。」
「そして君は、ただ待ってるというのか。」
「それより外に仕方がない。」
「それが最も安全な勝利の方法だろうさ。」
「何が?」
「そうさ、僕と信子さんとの間は唇と唇との交渉にすぎない。然し君と信子さんとの間はもっと深い交渉だからね。」
「何だと!」啓介は思わず叫んだ。
「君は夢想家さ。そして最も実際家だ。」
「木下、君の心は何処まで汚れてゆくんだ! 何処まで僕をふみ蹂ろうとするんだ!」
「ふみ蹂るのは君の方だ。」
「僕はもう何も云わない。自分の罪は自分で背負うつもりだ。」
「宜しい。君は罪を背負うがいい。僕は苦しみを背負ってやる。そして……。」
 ――信子は眠っていなかった。……彼女は酔っていた。酔った心にも、初め啓介の様子から強い衝動を受けた。床にはいってから、あ
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