介は彼の方を顧みた。
「何だ?」
「君、落付いてくれ給い。」
啓介は木下の顔を見つめた。それから、引きしめていた肩の筋肉をがくりと弛めた。
沈黙が続いた。
「信子、」と啓介は云った、「額の氷を取ってくれ。」
信子は木下の方を顧みた。そして啓介の額から氷嚢を取り去った。
「あり難う!」と啓介は云った。「……僕が礼を云ったからって気を悪くしないでくれ。お前に僕は、幾度あり難うと云いたかったか分らない。然しお前を心から取り逃したような気がしていた。お前の心持が僕には少しも分らなかった。そしていつも苛ら苛らした。僕の病気が悪いんだ。……お前は不幸な女だ。不幸なお前を、僕はいつもいじめてばかりいた。然し僕はどんなにお前を愛していたろう! 僕の心を木下君は知っていてくれる。そしてお前をも愛していてくれる……。」
彼は急に口を噤んだ。そして空間に眼を据えた。小鼻で息をしながら、身動きもしなかった。それから木下の方を向いた。
「木下、僕の頼みをきいてくれ。僕が死んだら、信子を保護してくれないか。」
「僕が?」
「そうだ。君より外には誰も居ない。信子はどんな境遇に居るか、君はよく知ってるだろう。
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