手を引込める拍子に上の掛蒲団をはねのけてみた。そして待った。然し信子は顔の筋肉一つ動かさなかった。ちらと視線を彼の方へ投げては、また石のように固くなって動かなかった。その無関心でない一瞥は、却って彼を苛ら立たした。彼は咳をした。看護婦が膝の書物を下に置いて寄って来た。そして痰吐を差出してくれた。まくれた蒲団を直し、落ちている紙を拾ってくれた。然し彼は不満だった。信子の手で為されなかったことが不満だった。彼はしいて眼をつぶった。室の中の有様が頭から離れなかった。吸入器、薬瓶、天井から下ってる電灯、何かこそこそ用をしている看護婦、膝の所に一つ黒い汚点《しみ》のあるその真白な服、そして信子はじっとしていた。どうしてああ動かないで居られるかと思われるほどいつまでもじっとしていた。息さえもしていないようだった。
 看護婦が用事で立っていった間に、そして台所で婆やと無駄口を利いている間に、啓介は仰向に寝直した、そして云った。
「おい、氷嚢を額にあててくれ。」
「はい、」と信子は答えて、云われる通りにした。そして尋ねた。「まだ頭痛がなさるの?」
 むしゃくしゃした気分が啓介の喉元にこみ上げてきた。

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