う平易な希望を見守っていたら、恐らくこの影は彼女を脅かしはしなかったろう。然し彼女は、病室の空気に余りに馴れ親しんでいた、余りに馴れ親しんで、その平易な希望をも何処かへ置き忘れていた。ただ在るがままの現在に、彼女は前方を塞がれていた。そして行きづまって停滞した彼女の心は、過去の影に脅かされた。脅かされた彼女の心を、更に啓介の執拗な眼が覗き込んだ。彼女は知らず識らずに木下の画室に逃げ込んでいた。画室は広々としていた。未来がうち開けていた。自由に呼吸することが出来た。一種直線的な傾向を持っている彼女の魂は、其処に出口を見出していた。
彼女は椅子に深く腰を下して、じっと考えに沈んだ。然し別に何も考えてはいなかった。彼女はふと顔を挙げて、真赤に塗りつぶされた画面を見入った。それから窓の方を眺めた。雨はまだ降り続いていた。彼女は木下のことを思った。今はそれを思うのは一種の苦痛であったが、その苦痛の底からしきりに待たるるものがあった。彼女は待った。何を? それは彼女にも分らなかった。婆やがはいって来ると、彼女は卓子の上に在った書物を機械的に取り上げた。「いいようにして置いて下さい、」と晩の料理の
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