えていた。
 彼は椅子の上に身を落し、窓際にもたれ、熱い額を両の掌に埋めた。
 ――二つの岡部の姿が、彼の前につっ立っていた。一つは、親友としてのまた畏友としての岡部、彼の許に一身を托してきた岡部、長い病に衰えきって幾度か危い境に彷徨した岡部、……而も彼はその岡部に対して如何なることをしたか! 病床に於ける岡部の残忍な苦闘を想う時、彼は自ら戦慄を禁じ得なかった。然しその岡部の傍には、も一つの岡部がつっ立っていた。危険なる容態と酷薄なる苦悩とを通り越して、静に、何物も乱すことの出来ない静かな落付きを以て、冷かに周囲を眺めている岡部。……彼は宛も巨大なる岩石に向うような気がした。彼が如何に苛ら立ち、如何に苦しもうとも、その岩は平然として眼をつぶっていた。そしてその二つの岡部を繋ぐものは、僅かに、「もし僕が死んだら信子のことを頼む、」との一言だった。「互に愛してくれ、」との一言だった。而も、僅かにではあり、一言ではあったが、それが彼の胸をぐさりとつき刺していた。名状し難い悲痛な感情が、苦痛が、其処から黒い血のように湧き出してきた。――信子も彼の眼には、二つの姿となって映じていた。一つは、愛する女性として。……彼女の瞳、彼女の香り、眼を閉じてよりかかって来た彼女の心、それらは彼の胸の底まで泌み通っていた。而もその傍には、単なる一女性が立っていた。恋の対象として「彼女でなければならない。」ということを、今の場合になって、右か左かの分岐点に立って、彼ははっきり感じなかった。凡てが必然さを以て彼の頭にぴたりと来なかった。多くの罪をも踏み越して愛した信子が、ただ「女性」のうちの偶然の一人であろうとは、彼は今迄夢にも思わなかった。而もそれは、彼の心を益々信子に愛着させるのであった。偶然であるがために、必然の繋りがないために、今別れることは永久に失うことであった。彼は殆んど解く術のない矛盾に迷い込んだ。――憂悶の辺際《はて》に追い込まれた彼は、凡てを一つにまとめることが出来なかった。分離した二つの岡部、分離した二つの信子、それらに対する苦しい考え、それらが或は絡まり或は孤立して、彼を陰惨な渦巻きの底へ誘って行った。そして彼が最後につき当るものは、あれほどの打撃に小揺ぎもしない岡部と信子との間の繋鎖であった。圏外に投げ出された自分の孤独であった。――木下は窓際にもたれたまま、肩を震わして啜り泣いた。啜り泣きながら苦しい夢幻の境に彷徨していた。画室の扉を開いて、信子が――それとも看護婦だったか――それとも、そんな筈はないが、岡部だったか――誰かがじっと覗き込んだようだった。彼は身動きもしなかった。いつのまにか外は霧が薄らいで、桃色の明るみに変っていた。煖炉の火が消えかかっていた。電灯の消えた室内に、茫とした盲《めしい》たような明るみがあった。
 ふと木下は我に返った。泣いていたことに気付いた。凡ての妄想が消え失せた。彼は云い知れぬ憤激の情に駆られた。呪わしかった。あらゆるものが、自分の身が。そして呪咀の気分の下から、一切を解決したいという焦慮が湧き上ってきた。呪って生きてやれという絶望の念が湧き上ってきた。彼は画室の中を見廻した。壁に掛ってる画面の歪んだのを、一々真直になおした。室の隅のカンヴァスを、大小の順に置き直した。卓子の抽出の中を片付けた。棚の上の書物や道具をきちんと整えた。そういうことをしながら、彼は死を想ってるのではなかった。呪わしい自分の生を愛護して突進せんことを想っていた。棚の上の花瓶を見た時、彼は身を震わした。唇をかみしめ眼をつぶってもたれかかってくる信子の姿が、一寸心に映じた。
 彼がまた危く荒廃の感の底に沈もうとした時、画室の扉が開いて、婆やの顔が現われた。彼女は、床に落ち散っている紙屑や布片を見て、眼を円くした。
「どうなさいました?」
 木下は答えなかった。
「御飯でございますよ。」と老婆は云った。
「僕は一寸出かけて来るから、後で此処を掃除しといて下さい。」と木下は云った。
 彼はそのまま、帽子も被らず家を出て行った。白く霜のおりた野の上に、弱い日が輝き出していた。彼は当もなく歩き出した……。
 彼は何処をどう歩いたか覚えなかった。ただ、後頭部にかすかな温みを送る朝日の光り、爽かな冷かな空気、霜の湿りを受けた黒い地面、何処かで鳴いた小鳥の声、遠い汽笛の音、それらを心に感じた。
 八時頃、看護婦が三疊で髪を結ってる時、木下は始めて病室に姿を見せた。彼は容態表をじっと眺めた。その朝の検査によると、熱三十八度二分、脈九十、呼吸十八だった。痰に交った血液は僅かだった。
「岡部!」と木下は云った。
「何だ?」と啓介は答えた。
 二人は一寸黙った。
「君は入院し給え。」と木下はやがて云った。「僕が凡て取り計らってあげる。それは僕の最後
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