て彼に幸した。然し彼は自分の自問自答に、何か不足なものがあるのを覚えた。しきりに深い落付きを求めている彼は、なお考えを止めなかった。そして幾度も同じ問いと答えとをくり返した。
眼を転じて室の中を見廻すと、まだ信子と高子とが起きていた。
「もういいから、寝《やす》んで下さい。」と彼は云った。「起きていられると何だか眠《ねむ》れない。」
然し二人は寝ようとしなかった。彼はまた同じ言葉をくり返した。
「では寝みましょうか。」と高子は云った。
信子は黙って首肯いた。
高子は、病人の湿布と氷とをすっかり取代えた。そして床にはいった。信子も床をのべた。
啓介は眠ったがように眼を閉じてしまった。そして頭の中で、凡ての観念を自分と同じ深い底に落付けさせようとした。ともすると、一つの観念がぽかりと上の方へ浮び上った。彼はそれを漂い所へ引き寄せた。また他の観念が浮び上った。彼はそれを引寄せた。やがてその仕事に倦み疲れて眼を開くと、信子がまだ炬燵によりかかっていた。
「もうお寝みよ。」と啓介は云った。
信子は驚いたように顔を上げた。真蒼な色をしていた。眼をきょとんと据えていた。暫くして思い出したように返事をした。
「はい。」
それが余り程経てだったので、啓介はくり返した。
「もうお寝みよ。起きていなくてもいいから。」
信子は眼をくるりと動かした。
「寝たくないから、勝手に起きてるんですわ。」
啓介は黙ってまた眼を閉じた。彼女の心が最も悪い状態に在るのを彼は知った。責任が自分に在るような気がした。自責の念が益々深められていった。然し悔恨となっては現われなかった。ただ深い自己沈潜を助けるのみだった。彼は殆んど夢幻の境にまで沈んでいった。どん底に達したかと思うと、また一段と深い所が現われてきた。自分は存在してるという意識の底に、その仄白い明るみの底に、更に空虚な闇が湛えていた。その闇の中に覗き込むと、ただ茫として、怪しい幻が立ち罩めてるようだった。其処では個性が許されなかった。凡てが一つの大きな渦に融け込んでいた。彼は眼が眩むように覚えた。……はっと我に返ると、凡ての注意が一つ所に集められていた。彼はその急激な変化に、暫く息さえも出来なかった。やがて次第に何のことだか分ってきた。襖の外の廊下に何かの気配《けはい》がした。彼は凡ての注意を其処に集めた。あたりがしいんとしていた。
「おい、お寝み!」と彼は信子に云った。
信子は、その声とその眼付とに、異常な何物かを感じた。「はい、」と答えて立ち上った。
啓介は襖の外に注意を集中していた。物の気配が静に遠ざかっていった。廊下の板がみしりと軽い音を立てた。信子は便所へ行った。すぐに戻って来た。彼の様子をちらと眺めて、床にはいった。彼はなお廊下の方に気を取られていた。
啓介には長い時間のようでもあれば、また僅かな間のようでもあった。再び何かの気配が廊下を伝って来た。彼の注意は鋭利に、病者特有の鋭利さに、研ぎすまされた。その何者かは、病室の前に来てぴたりと止った。静になった。襖がことりと一つ揺れた。押えとめられて却って喘ぎの音を立ててる、温い息が感ぜられた。それが数瞬の間続いた。啓介は俄に直覚した。疑う余地はなかった。彼は暫く躊躇した。それから眼をふさいで心を落ち付けた。そして云った。
「木下君、はいり給え。丁度眼がさめてるから。」
三四秒の間、静まり返った。それからすーっと襖が開いて、木下がはいって来た。
彼の顔は総毛立っていた。眼の光りが黒く冴え返って、荒々しいほど露《あら》わに覗き出していた。彼は室内をくるりと見廻した。それから、其処に置かれてる炬燵によりかかるようにして坐った。
「まだ起きてたのか。」と啓介は云った。声が自然に震えた。
「用があるんだ。」と木下は答えた。
啓介は黙っていた。
「君は、」と木下は云った、「僕のやったことを卑劣だと思ってるね。」
啓介は静に首を振った。
「つまらないお世辞は止し給え。僕自身も卑劣だと知ってる。然し……僕は君達の心が知りたいんだ。」
「おい、低い声で云ってくれ給え。」と啓介は注意した。調子はもう落付いていた。「二人共眠ってるから。」
暫く沈黙が続いた。
「僕は今のうちに、解決しておきたいんだ。」と木下は云った。「中途半端な状態は堪えられない、然し病気の君と争うつもりではない。ただ君の答えがききたいんだ。」
「何の答えが?」
「どういう解決を望んでるか……。」
「解決の鍵は信子の心が握ってる。」
「然し君にも何かの希望はあるだろう。」
「ない。」
暫く沈黙が続いた。
「では僕は君に尋ねる。一々本当の所を答え給え。」
「うむ。僕はごまかしはしないつもりだ。」
「もし信子さんが、僕に一生を任せると云ったら、君はそれでもいいのか。」
「いい
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