の隅を見つめていた。二人がはいって来ても彼は視線を動かさなかった。
木下は妙にかしこまって坐った。
「どうかしたのか。」と暫くして木下は尋ねた。
啓介はあたりを見廻した。
「いや、君に話したいことがあったが、後でもいい。」
「そんなら今云ってくれ給い。どんなことでも構わない。今丁度いいから。」
木下の方が妙に急《せ》き込んでいた。彼は身を乗り出して、啓介の顔を覗き込んだ。
風につれて遠く汽笛の音が響いてきた。啓介は俄に眼を見据えた。
「木下!」と彼は云った。それから室の中にぐるりと視線を動かした。「尾野さん、一寸外の室に行っててくれませんか。」
「じゃあ僕の室に行ってて下さい。」と木下は云った。
看護婦が室から出て行くと、啓介は俄に荒々しい様子に変った。落ち凹んだ眼が上目勝ちに据っていた。呼吸の度に小鼻が脹れ上っていた。頬がこけて妙に大きく見える頤には、粗らな髯がかさかさに乾いていた。
「僕は死ぬかも知れない。」と彼は云った。調子は落付いていたが、或る圧倒し来る力に押し出されるような響きがこもっていた。彼はくり返した。「僕は死ぬかも知れない。それで、その場合のために用意をしておくのはいいことだと思う。」
木下も信子も、何とも答えかねた。問題が余りに真剣であるのを彼等は感じた。啓介は云い続けた。
「木下、僕は君に大変迷惑をかけた。君の仕事の邪魔ばかりした。然し許してくれ。君一人が頼りだったのだ。君が居ないと、僕は淋しくて堪らなかった。側で君の顔を見ないと、君がどうしてるか分らなくなって、君を取り失うような気がした。僕は溺れていた。だんだん下の方へ沈んでゆく。何かに取り縋ろうとあせっていた。君は水に浮いてる藁屑だ。……藁屑だっていいじゃないか。僕がそれに縋りつこうとしていたんだ。信子も僕と一緒に溺れていた。僕を見捨てて一人で泳いでいる。苦しくなると僕につかまってくる。僕はそれを蹴放してやった。深い所へ沈んでいった。何処へ行ったか分らない。僕一人なんだ。監獄に禁錮された者の気持ちが、僕には想像出来る。真四角な室、堅い鉄の扉、息が苦しくなるほど狭い世界だ。誰かが僕に毒を盛ろうとしていた。僕は黙って横目でちらと見て取った。そして笑ってやった。すると……。」
彼の言葉を遮らねければならなかった。木下は彼の手を握って、「岡部、岡部!」と云った。そして手を打振った。啓介は彼の方を顧みた。
「何だ?」
「君、落付いてくれ給い。」
啓介は木下の顔を見つめた。それから、引きしめていた肩の筋肉をがくりと弛めた。
沈黙が続いた。
「信子、」と啓介は云った、「額の氷を取ってくれ。」
信子は木下の方を顧みた。そして啓介の額から氷嚢を取り去った。
「あり難う!」と啓介は云った。「……僕が礼を云ったからって気を悪くしないでくれ。お前に僕は、幾度あり難うと云いたかったか分らない。然しお前を心から取り逃したような気がしていた。お前の心持が僕には少しも分らなかった。そしていつも苛ら苛らした。僕の病気が悪いんだ。……お前は不幸な女だ。不幸なお前を、僕はいつもいじめてばかりいた。然し僕はどんなにお前を愛していたろう! 僕の心を木下君は知っていてくれる。そしてお前をも愛していてくれる……。」
彼は急に口を噤んだ。そして空間に眼を据えた。小鼻で息をしながら、身動きもしなかった。それから木下の方を向いた。
「木下、僕の頼みをきいてくれ。僕が死んだら、信子を保護してくれないか。」
「僕が?」
「そうだ。君より外には誰も居ない。信子はどんな境遇に居るか、君はよく知ってるだろう。僕が居なかったら世の中に一人ぽっちだ。僕がもし死んだら……。」
「君は何を云うんだ。大丈夫だ。これ位の病気に死にはしない。」
「僕は死なないかも知れない。然し或は死ぬかも知れない。その場合の用意もしておかなくてはいけない。万一の場合にあわてたくない。信子を保護してくれ。」
「岡部!」と木下は叫んだ。「信子さんのことは僕が引受ける。だから静かにしてくれ、静かに。君は今が一番大事な時だ。」
啓介は其処に身を起そうとしていた。木下が引止める手を払って、厳然と頭を振った。断平たる決意の色が、不可抗の力が、その顔に現われていた。彼の云うままに任せるの外はなかった。木下と信子とは彼の両腕を支えてやった。彼は上半身を起して、深い息をついた。激しい咳が襲ってきた。信子は彼の背中を撫でてやった。痰吐を取ってやった。吸飲の水で含嗽をさした。木下は彼の腕を捉えながら、頭を垂れていた。
「岡部、僕も君に云うことがある。僕は……。」
「木下さん!」と云って信子は彼の手に取り縋った。
「僕は、」と木下は続けた。「信子さんを愛している。」
「君達は互に愛するがいい。」と啓介は云った。「頼む。それで僕は、安心して死
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