幻に見るようになった。……神経質な継母と凡てに無頓着な父との下に苦しんだ幼年時代、女学校を卒業すると東京の地に憬れて無断で中国の故郷の家を飛び出して来た頃のこと、東京に住む遠い親戚の者等の冷淡、国許の両親の立腹、大きな都会の渦巻き、文学に対する幻滅、生活の困難、種々の誘惑、そして辛うじて身を落付けたカフェー、啓介との恋愛、啓介の両親の憤り、啓介と二人で逃げ込んだ木下の家、初めの苦しい而も楽しい五ヶ月、それから啓介の病気、一進一退する長い病気、苛ら立ちと疲労、――それらの過去が一つの大きな影となって、脅かすように彼女の後ろに突っ立った。彼女はその影が自分の上にのしかかって来るのを時々感じた。淋しげに眼を閉じている病人の側についていて、何にも見も考えもせずふとぼんやりとした瞬間に……夜遅く木下が室を出て行って、病人が寝返りをした後で、もう寝ようかと一寸躊躇した瞬間に、……夜中にふと眼を覚して、心持ち冷えてきた病室の空気の中に、病人と看護婦との横の方に縮こまって寝ている自分を見出した瞬間に、そして彼女は不気味な悪寒《おかん》に身を震わした。もし彼女が、「岡部が全快してさえくれたら……。」という平易な希望を見守っていたら、恐らくこの影は彼女を脅かしはしなかったろう。然し彼女は、病室の空気に余りに馴れ親しんでいた、余りに馴れ親しんで、その平易な希望をも何処かへ置き忘れていた。ただ在るがままの現在に、彼女は前方を塞がれていた。そして行きづまって停滞した彼女の心は、過去の影に脅かされた。脅かされた彼女の心を、更に啓介の執拗な眼が覗き込んだ。彼女は知らず識らずに木下の画室に逃げ込んでいた。画室は広々としていた。未来がうち開けていた。自由に呼吸することが出来た。一種直線的な傾向を持っている彼女の魂は、其処に出口を見出していた。
彼女は椅子に深く腰を下して、じっと考えに沈んだ。然し別に何も考えてはいなかった。彼女はふと顔を挙げて、真赤に塗りつぶされた画面を見入った。それから窓の方を眺めた。雨はまだ降り続いていた。彼女は木下のことを思った。今はそれを思うのは一種の苦痛であったが、その苦痛の底からしきりに待たるるものがあった。彼女は待った。何を? それは彼女にも分らなかった。婆やがはいって来ると、彼女は卓子の上に在った書物を機械的に取り上げた。「いいようにして置いて下さい、」と晩の料理のことを頼んだ。婆やが出て行くと、彼女は書物を投り出して、またぼんやり夢想に沈んだ。
暫くして彼女は立ち上った。画室を出て病室の方へ行った。啓介は眠っていた。看護婦は雑誌を読んでいた。彼女は一寸次の室に坐って、火鉢に炭をついだ。それからまた画室に戻って来た。椅子の上に身を落付けると、前夜の睡眠不足のために、胸の奥がかすかに痛むようで、頭が妙にほてっていた。足の先が冷えきってゆくようなのをじっと我慢《がまん》していると、幻とも夢ともつかないもののうちに意識が茫としてきた。……彼女は木下が帰って来たのを殆んど知らなかった。
木下は信子の姿を見て、驚いて立ち止った。それから室を出て行こうとした。その時信子は、木下の姿を見て更に驚いて、俄に立ち上った。椅子が倒れた。その大きな音が二人を我に返らした。
「お帰りなさい。」と信子は云った。
木下は扉を閉めて室の中にやって来た。
「何をしていたんです?」と彼は云った。その声は震えを帯びていた。
「この絵を見ていましたの。」と彼女は落付いた声で答えながら、前の画面にまた眼をやった。
「私はもうそれを思い切ってしまいました。」と木下は云った。「いつまでたっても書けそうもありません。昨晩と今日と、私は雨の降る中を歩きながら、種々考えてみました。実際馬鹿げた努力を続けていたものです。……岡部君の云うのが本当です。あなたの云われることが本当です。」
彼は言葉と共に頬の筋肉を震わしていた。彼女はその顔をじっと眺めた。
「ではどうなさるの?」
「何よりも私達は、……岡部君の病気が早く癒るようにしなければいけません。」
その言葉は最も残酷に彼女の心を揺った。彼女は下唇をかみしめながら、木下の眼の中を覗き込んだ。
木下は一歩退った。
「木下さん!」信子はそう叫んで、上半身から彼の方へ倒れかかって来た。
「岡部君を……。」と木下は云った。然しそれは、水に沈んだ者が再び水面に浮び出ようとする最後の努力であった。彼は、下唇を噛みしめて眼を閉じている信子の顔を見た。
もたれかかって来る彼女の上半身を、彼は両腕に受け取った。
六
啓介の世界は劃然と二つに区別せられていた。一つは病室内の世界――其処では凡てが余りに明るかった。天井板の木目から、襖の模様、壁についてるかすかな傷まで、彼は残らず知りつくしていた。看護婦や信子や木下の一挙
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