はその明るみに縋りついた。上に浮び出ると、涙ぐましいばかりの生命の光りが漲っていた。すると、僅かな気分の揺ぎに、その光りがふっと陰《かぎ》っていった。過去の事実が巖として聳えていた。彼はまた無限の暗い深みへ陥っていった。斯くて彼は、先夜死の幻の暗い穴を脳裏に去来さしたように、闇と光りとの間を往来した。然し今投げやり投げ返されるのは彼自身であった。そして、殆んど律動的な残忍な上下動に身を任しているうち、彼は遂に一つのものに辿りついた。それは無限の底に身を落付けることだった。生きるということの光りを見捨てて、ただ存在するという仄かな明るみに、深い闇の底に何処からともなく射してくる明るみに、闇を安住させることだった。其処から外を眺めると、凡てが静かに、ほんとに静かに、じっと落付いていた。「信子!」と彼は呼んでみた。「木下!」と呼んでみた。何の反響も伝わらなかった。母の名を呼んでみた。静かだった。彼は手足を伸して安らかに横たわった。病室の空気も、今は親しくなつかしく思えた。――然し其処に達するまで、彼は魔睡から覚めて以来絶えず苦悩を続けた。或時は、病に衰弱しきった自分の精神に絶望した。或時は、殆んど夢幻のうちに彷徨した。何を云われても彼は黙っていた。余儀ない場合には出来るだけ簡単な返事をした。もし、木下と信子とが何故にああなったかを考察したならば、彼の苦悶はそれほど残酷ではなかったろう。然し彼の頭はその「何故に?」ということに働きかけなかった。彼は結果の事実にのみぶっつかっていった。彼の顔の筋肉は硬ばって、額は暗い皺を刻んでいた。ただその心には、深い所から射す安らかな光りがあった。彼は落付いていた。深い安らかな心の光りで凡てを眺めた。
落ち付いた彼の心を乱すものは、ただ一つきり残っていなかった。それは先夜の自分の提議であった。木下に信子の未来を托さんとする提議であった。ああいうことをすべきであったか否かを、彼は自ら尋ねた。そして躊躇なく否と自ら答えた。自分の死後を自ら規定する権利、それは誰にもないのであると、彼は考えた。彼は激しい自責の念に襲われた。そして、その自責の念を掘り下げることによって、彼は益々深い所へ落付いていった。もし彼が何故にああいう提議をしたかと自ら尋ねたならば、彼は更に深い動乱に陥ったであろう。茲に在っては、彼の意識がその「何故に?」を逸したことは、却っ
前へ
次へ
全53ページ中44ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング