しながら室を出て行った。入口で一寸足を止めた。木下は頭を垂れて、黙り込んでいた。彼女は急に身を翻して出て行った。
木下はじっとしていた。
十四
啓介は、頓服薬をまたのみたいと云った。身体に障るからと云って高子がとめた。啓介は黙って首肯いた。然し夜になると、彼は自然の眠りに落ちた。眠りは安らかだった。一時過ぎに眼が覚めた。
深い静寂があたりを包んでいた。啓介は眠った風を装って、室内の様子を窺った。何の気配もしなかった。細目に覗いてみると、高子と信子とが起きていた。信子はだらしなく炬燵によりかかっていた。高子は何かの書物を読んで居た。啓介はまた眼を閉じた。
生きてることを意識する光りが、彼の心に射していた。しみじみとした爽かな光りだった。云い知れぬ感激が胸からこみ上げてくるのを、彼はじっと押えた。「神よ!」と呼びかけてみたくなった。広い無際限の野に出ていた。「神よ!」と呼びかけたくなった。然し、眼瞼のうちに射し込んでくる電灯の明るみをしたって、半ば眼を開いた時、すーっと黒い影が掠め去った。彼はあたりを、心の中の隅々を、顧みた。まざまざとした記憶が、眼を開いてきた。取り返しのつかない事実が、その背後に聳えていた。彼の頭の中には打ち消すことの出来ない印象が刻み込まれていた。
木下と信子との関係がどの程度まで進んだものであるか、彼は少しも知らなかった。然し背景となるべき雰囲気と事情とを考えて、ただ心と心との結ぼれに過ぎないことを疑わなかった。然しその心をこそ、信子の心をこそ、あれほど苛ら立ちながら彼は求めていたのであった。今その心を失ってしまったことを思うと、彼は堪らない寂寥に襲われた。信子との深い愛の日のことが思い出された。その一つの記憶の糸をたぐると、凡てのことが展開されてきた。敢然と肯定してはいっていった愛の生活、両親を捨てて家を飛び出した前後の事情、世に隠れて移り住んだ一室、絶えず胸に沸いてきた奮闘の力と信念、それらが……僅かな一撃の下に崩壊してしまった。而もそれは、二人が身を托した友人の手によって為された、自分の半身だと信頼していた彼女の手によって為された。彼は足場を失って無限の深みへ落ちてゆくのを感じた。そして今、陥った無限の底に達すると、何処からともなく仄かな明るみがさして来るのを知った。それは自分が存在してるというかすかな意識だった。彼
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