介は彼の方を顧みた。
「何だ?」
「君、落付いてくれ給い。」
啓介は木下の顔を見つめた。それから、引きしめていた肩の筋肉をがくりと弛めた。
沈黙が続いた。
「信子、」と啓介は云った、「額の氷を取ってくれ。」
信子は木下の方を顧みた。そして啓介の額から氷嚢を取り去った。
「あり難う!」と啓介は云った。「……僕が礼を云ったからって気を悪くしないでくれ。お前に僕は、幾度あり難うと云いたかったか分らない。然しお前を心から取り逃したような気がしていた。お前の心持が僕には少しも分らなかった。そしていつも苛ら苛らした。僕の病気が悪いんだ。……お前は不幸な女だ。不幸なお前を、僕はいつもいじめてばかりいた。然し僕はどんなにお前を愛していたろう! 僕の心を木下君は知っていてくれる。そしてお前をも愛していてくれる……。」
彼は急に口を噤んだ。そして空間に眼を据えた。小鼻で息をしながら、身動きもしなかった。それから木下の方を向いた。
「木下、僕の頼みをきいてくれ。僕が死んだら、信子を保護してくれないか。」
「僕が?」
「そうだ。君より外には誰も居ない。信子はどんな境遇に居るか、君はよく知ってるだろう。僕が居なかったら世の中に一人ぽっちだ。僕がもし死んだら……。」
「君は何を云うんだ。大丈夫だ。これ位の病気に死にはしない。」
「僕は死なないかも知れない。然し或は死ぬかも知れない。その場合の用意もしておかなくてはいけない。万一の場合にあわてたくない。信子を保護してくれ。」
「岡部!」と木下は叫んだ。「信子さんのことは僕が引受ける。だから静かにしてくれ、静かに。君は今が一番大事な時だ。」
啓介は其処に身を起そうとしていた。木下が引止める手を払って、厳然と頭を振った。断平たる決意の色が、不可抗の力が、その顔に現われていた。彼の云うままに任せるの外はなかった。木下と信子とは彼の両腕を支えてやった。彼は上半身を起して、深い息をついた。激しい咳が襲ってきた。信子は彼の背中を撫でてやった。痰吐を取ってやった。吸飲の水で含嗽をさした。木下は彼の腕を捉えながら、頭を垂れていた。
「岡部、僕も君に云うことがある。僕は……。」
「木下さん!」と云って信子は彼の手に取り縋った。
「僕は、」と木下は続けた。「信子さんを愛している。」
「君達は互に愛するがいい。」と啓介は云った。「頼む。それで僕は、安心して死
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