から口を出した。然し彼は彼女を追求して止めなかった。彼女が泣き出すと、彼は急に口を噤んで眼を閉じた。眼には涙を一杯ためていた。しまいには、木下君を呼んでくれと云ってきかなかった。木下が不在であると、戻ってくるまでは一言も口を利かないでじっとしていた。
 木下は病室をぬけ出すことに苦心した。病に衰えて信頼しきっている友の顔を眺めていると、彼は悲痛な情と自責の念とが胸にこみ上げてきて、頭脳が激し態度が荒立ってくるのを覚えた。そして、それが病人の安静を乱すことを恐れた。彼は種々な口実を探した。煙草を吸ってくる、飯を食ってくる、手紙を書いてくる、手を洗ってくる、便所に行ってくる、――所用のため外出するとは云い得なかった、――然しそれらの口実は余り度々くり返すわけにはゆかなかった。ただ製作をするんだからという時だけ、啓介は快く、而も非常に淋しい顔をして、彼を許してやった。彼は画室に逃げて行った。
 信子はよく、木下を呼びに、啓介から画室へ追いやられた。「お仕事中ですから。」と云っても、啓介はきかなかった。
「今頃室内で絵が描けるものか。」と啓介は云った。
 信子は画室に馳け込んでいった。椅子にかけて深く考えに沈んでいる木下の腕に彼女は縋りついた。
「木下さん、また……。」
「岡部君が呼んでるのですか。」
「ええ。」
 木下は立ち上った。信子は彼の手を握りしめた。
「行《い》らっしゃるの?」
「ええ。」と木下はきっぱり答えた。「私は岡部君の前に出るのが恐ろしいような気がします。然しその恐ろしさは当然受けなければならないものです。いや、此処に一人でじっとしていても、私は恐ろしい。考えれば考えるほど、深い渦の中に巻き込まれてゆきそうだ。眼をつぶると真暗なものが襲いかかって来る。何にも考えないでじっと眼を見開いている外はない。……あなたは震えているんですね。もう仕方はありません。なりゆきに任せましょう。然し覚悟はきめて置かなければいけません。どんなものにぶっつかるか待ってみましょう。しっかりしていなければいけません。ぶっつかるものが何であるかは分らないが、ぶっつかる覚悟だけはしておきましょう。私はもう後悔はしない。力の限り堪え忍ぶことだ。……信子さん!」
 彼は信子を胸に抱きしめた。
「あなたは、」と信子は云った、「岡部に仰言るつもりなの?」
「ええ、場合によっては。」
「でも……い
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