或いは屈服の、或いは苦しい情熱の、時折の閃めきが、二人の視線の中に織り込まれていた。然し間もなく、木下が室から出てゆくか、信子が座を外すかした。啓介は苛ら立ってくる自分の心をじっと押えた。
 木下が室から出て行くと、信子は啓介の枕頭に寄って来た。そして氷嚢に手をあててみたり、気分はどうかと尋ねたりした。彼は「いい。」と答えた。彼女は床《とこ》の間《ま》から鋏を取って、口拭きの紙を切った。その不真実な行為に、啓介は顔を渋《しか》めた。
「うるさい。後にしてくれ。」と彼は云った。
「はい。」と信子は取澄した返事をして、向うに身を退った。
 啓介はじっとしていた。信子は黙っていた。そしてその沈黙が、やがて啓介には堪《たま》らない圧迫となってきた。信子は火鉢によりかかるようにして、畳の上に視線を落していた。石膏像のような冷たい横顔を彼の方に向けて、いつまでも身動きさえしなかった。
 啓介は荒々しく寝返りをした。そして待った。氷嚢を額から外した。そして待った。紙を取って口を拭き、それを枕頭に投り出した。そして待った。再び寝返りをした。そして待った。わざと蒲団から手を長く出してみた。そして待った。手を引込める拍子に上の掛蒲団をはねのけてみた。そして待った。然し信子は顔の筋肉一つ動かさなかった。ちらと視線を彼の方へ投げては、また石のように固くなって動かなかった。その無関心でない一瞥は、却って彼を苛ら立たした。彼は咳をした。看護婦が膝の書物を下に置いて寄って来た。そして痰吐を差出してくれた。まくれた蒲団を直し、落ちている紙を拾ってくれた。然し彼は不満だった。信子の手で為されなかったことが不満だった。彼はしいて眼をつぶった。室の中の有様が頭から離れなかった。吸入器、薬瓶、天井から下ってる電灯、何かこそこそ用をしている看護婦、膝の所に一つ黒い汚点《しみ》のあるその真白な服、そして信子はじっとしていた。どうしてああ動かないで居られるかと思われるほどいつまでもじっとしていた。息さえもしていないようだった。
 看護婦が用事で立っていった間に、そして台所で婆やと無駄口を利いている間に、啓介は仰向に寝直した、そして云った。
「おい、氷嚢を額にあててくれ。」
「はい、」と信子は答えて、云われる通りにした。そして尋ねた。「まだ頭痛がなさるの?」
 むしゃくしゃした気分が啓介の喉元にこみ上げてきた。

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