一動、その動作を裏付ける感情、一として彼の眼を逃れることは出来なかった。他の一つは病室外の世界――其処では凡てが朦朧としていた。空が晴れているか曇っているかさえ、彼にはよく分らなかった。縁側の障子にはまってる硝子越しに垣間《かいま》見る空は、いつも陰鬱に夢のように彼には感ぜられた。寒暖、風の有無、それらは更に分らなかった。また画室や台所の有様は勿論のこと、すぐ向うの六畳の室の様子さえ分らなかった。皆がどういう顔をして何を話しているか、少しも分らなかった。病室の襖や壁や障子が、厚い鉄の壁ででもあるかのようだった。その鉄の壁の外部に在るものは凡て、視線と想像との届かない遠い距離の奥に逃げ込んでいた。そして壁の内部に在る凡ては、眩《めくら》むばかりの明瞭さを以て彼の眼に映じた。この恐ろしいほど透明な世界と恐ろしいほど曖昧な世界との対立が、絶えず彼を苦しめた。
 一室に禁錮せられた者の心に似ていた。劃然と範囲を定められた自分一人の世界の中に於て、彼の眼は益々執拗になっていった。用をする時の看護婦の手付きのうちに、彼女の心がそれに向いているか否かを彼は見て取った。診察する時の医者の取り澄した表情のうちに、彼は自分の病勢の経過を読み取った。「もう寝《やす》みましょうか。」と信子が看護婦に云う言葉の調子に、彼は信子の感情の状態を感知した。病室にはいって来てじっと彼の顔を眺むる木下の眼付に、彼は木下の心の動きを見て取った。彼がふと仮睡の眼を開く時、それを見てちらと動いた皆の顔色のうちに、彼は如何なる種類の会話が行われていたかを察した。
 然し連続的な推移を包容するには、彼の意識は余りに弱りすぎていた。最近次第に、木下が病室には僅かな間しか留らなくなったこと、信子が頻繁に病室をあけるようになったこと、木下が屡々外出するようになったこと、よく信子が早くから寝床にはいって看護婦が一人遅くまで起きてるようになったこと、木下の顔色が陰鬱になってきたこと、信子の眼が妙に輝いてきたこと、……それらを彼ははっきり意識していなかった。彼にとっては、瞬間のみが、個々に断ち切られた瞬間のみが、存在していた。
 斯くて彼は自分の病床の横の方に木下と信子と並んで坐っている時、二人の間に交《かわ》される眼の閃めきを見て、駭然として不安の念に襲われた。無意味な話題の間に、二人は頻繁に眼を見合った。或いは戦いの、
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