はそれらのことに、老婆と二人きりの頃知らなかったそれらのことに、知らず識らず馴れてしまっていた。今それに気付くと、彼は自分が、やさしい女性の世話のうちに、如何に温く深く抱きしめられてるかを見出した。彼は信子の姿を眼前に描き出した。彼は病み臥してる岡部のことを想った。彼は深い寂寥に囚えられた。彼は唇を噛みしめながら枯れはてた樫と叢と芝生と陰欝な空との画面を眺めた。……彼は堪らない気になって、いきなりそれを真赤な色に塗りつぶした。
室の中にはいつのまにか電灯がともっていた。彼は画筆を其処に投り出して、まじまじと電灯の光りを仰いだ。彼は立ち上って窓の所へ行った。窓の扉を開くと、なお降り続いている雨脚が、淡い電灯の光りを受けて、すぐ眼の前に白く注ぎかかった。彼はぞっと寒気《さむけ》を背筋に感じて、窓を閉めた。そして煖炉の側の椅子の上に蹲った。
五
翌日も雨が降った。雪が雨に代ってしまったことは、やがて春が来るのを想わせるのであったが、その想いは陰鬱な明るみと冷たい雨とに取り囲まれて、却って粛条たる気持ちを人の心に与えた。
木下は朝から外出していた。信子は三度彼の画室に逃げ込んだ。
朝、啓介は信子に云った。「木下君はどうしたんだ? 昨晩も夜遅くまで帰って来なかったし、今日も朝から出かけたりして。お前何か不快なことを云ったんじゃないか。」「いいえ、」と信子は答えた。然しその答えは真実だった。彼女にも木下の心がよく分ってはいなかった。前夜、木下が遅くなって帰って来る音を彼女は眠ったふりして聞いていた。それから長く眠れなかった。夜明け近くにうとうとして眼を覚すと、睡眠不足のため頭がぼんやりしていた。心は落付を失っていた。彼女は考えを纒めるために、画室に逃げ込んだ。
昼の食事を済した後で、彼女は暫く画室にはいった。
午後、彼女は吸飲《すいのみ》を取って啓介に含嗽をさした。うっかりしていた拍子に、吸飲の水を啓介の頬から蒲団へ少し垂らした。「いやに冷淡になったね、」と啓介は皮肉らしい調子で云った。横の方で看護婦が、乾いた湿布の布を畳んでいた。看護婦はちらりと眼を挙げて彼女を眺めた。彼女は啓介の言葉よりも看護婦の視線から、胸の奥に冷たい矢を受けた。夕食の仕度を口実にして、彼女は画室に逃げ込んだ。
過去の大きな影が自分の後ろにすっくと立っているのを、彼女はいつしか
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