とがあるが……。」
 木下は信子の顔を見た。彼女は彼をじっと眺めていた。その眼にはもう先刻の淋しい色はなくて、ただ露《あら》わな、自分を投げ出した余りに露わな輝きのみがあった。その輝きに引き込まれて、彼が彼女の瞳に見入ると、彼女は俄に、ちらと一つの瞬きでその瞳を大きな影に包み込んだまま、眼を伏せてしまった。
 赤く焼けた煖炉の光りが、薄暗くなりかけた室の中に、彼女の姿を横からくっきりと輝し出していた。火に軽く熱《ほて》った頬、皮下に汗ばんでるような滑らかな額、無雑作に束ねた乱れがちな髪、それらを支えてる丈夫そうな頸筋、頸筋からじかに上膊へなだれ落ちてる肩の線、襟をきつく合した着物の下には、凡てが球面で出来てる硬い弾力のある処女らしい肉体、――木下は、以前岡部に連れられて時々行ったカフェーで見た彼女を、今再び見出したような気がした。ただ眼前の彼女は身動き一つしないでじっと眼を伏せているのみであった。彼はその横顔を見入りながら、やがて云った。
「あなたは私に、あなたの肖像を描かせるつもりですか。」
「いいえ。」と信子は静に答えた。
 それから彼女は急に立ち上って、低い声で云った。
「私もうあちらへ参りますわ。」
 木下は思わず椅子から立ち上った。彼女は足を止めた。二人は釘付にされたように一寸立ち竦んだ。それから彼女は一歩ずつゆるやかに足を運んで、次に足を早めて、室から出て行った。
 木下は暫く其処に立ちつくしていた。憤激とも喜悦とも悲哀ともつかない云い知れぬ感情に、彼は胸を震わした。彼は倒れるように椅子に腰を落して、描きかけの画面を眺めた。「君の心の中に在るものが君の製作を裏切るのだ、」と云った岡部の言葉を思い出した。彼は身のまわりを見廻した。それから室の中を見廻した。信子の息吹きが至る所にあった。棚の上の石膏像には少しの埃もかかっていなかった。室の隅の筆洗盤は綺麗に磨かれていた。釘に吊してある外套の裾には少しの泥もこびりついていなかった。床《ゆか》は心地よく掃除されていた。花瓶には梅の枝が※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]されていた。書物は棚の片隅に並べてあった。絵筆拭きの布が釘に下って乾いていた。煖炉の灰がすっかり取去られて水が適度に入れてあった。扉のわきには磨かれた靴が揃えてあった。凡ての道具が各々の場所に落付いていた。――彼
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