に愛していてくれる。」――きいていておれは首を傾げた。――「ところが、僕たちは、いろんな事情で、なかなか逢えなくなってしまった。然し……いろんな事情……そんなもの、僕に何の関係があるんだ。逢おうと思えば逢えるさ。だが、そうかって、いくら恋しあった仲でも、しょっちゅう逢っていなけりゃならないてこともないだろう。いつか逢えればいいんだ。それにまた、知らないひとに逢ったほうが面白いことだって、あろうじゃないか。」――そうだそうだ……とおれは頷いてやった。――「そういうわけで、僕は可なり身をもちくずして、酒ものめば放蕩もしたものだ。それが癖になって、しじゅう出歩き、仕事もなにも手につかず、根気もなくなり、何事も面倒くさくなったが、それと一緒に、一方では、恋人のことも影がうすれていった。彼女なんかもうどうでもいいと、そんな風に思うようになった。こうなったら、もう恋人もないと同様だね。いや初めからなかったのかも知れないよ。だけど、あるにはある。あるけどない。」――何を云ってるんだ、とおれは呟いてやった。――「ところがだ、その……もう無いに等しい恋人の姿が、ひょいひょい、思いもかけない時に、僕の前に現われてくるんだ。いちばん意外な時、いちばんぼんやりしてる時……まあ云ってみれば、往来を歩いて、曲り角をまがった瞬間だとか、バスから降りて、歩道の上につっ立った間際だとか、酔っぱらって物に躓いて、ふらふらとして、電柱につかまったとたんだとか、さっき君が立っていって、すーっと冷たい風が流れた隙間だとか、そんな時に、はっきり彼女の姿が見えるんだ。どんな顔でどんな身なりだか、そんなことは分らないが、或る光みたいに、音響みたいに、香気みたいに、とにかくはっきり見える。僕は昨年、女房が死んで、その当座、女房のことをよく思いだしたものだが、そういう思い出とはまるでちがう。恋人の姿は、現在生きていて、まざまざと、そこにあるんだ。いつだったか、西に向って、坂を上っていたら、夕方のことで、夕日が真赤にさしてきたので、立上ってそれを眺めていると、坂の上に、彼女がじっと立っていた。僕が立ってる間、向うもじっと、夕日をあびて、僕の方を見ていた。一歩ふみだしたら、もう消えてしまった。」――おれは頭をかいた。――「そしてふだん、疲れた時とか、夜寝る時とか、その恋人のことを考えると、考えただけで、胸がしめつけられて
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