ます。」
山根さんも夢の中でのように云っている。
「いいえ、誓ってはいけません。」
「いえ、誓います。」
「いいえ、誓ってはいけません。」
それが互に嬉しそうなんだ。おれはチェッと舌打ちした。その音が聞えたかどうか、二人は何かはっとした気配《けはい》で、あたりを見廻し、それから顔を見合ったが……ざまあみろ……微笑が凍りついていた。尤も、寒い夜だった。
おれの腑におちないというのは、その翌日からの南さんの一層ひどい憂欝だ。山根さんが云ったように、南さんは理想的な状態にあった筈だ。ただ、山根さんには多少不感症めいたところがあったかも知れないが、然しそれは取るに足りないことだし、南さんにしたところで、ホテルの昨夜、殆んど何にも分らなかったほどだし、とにかく、南さんの憂欝は、ちがった種類のものに相違なかった。そして南さんは、なおひどく酒を飲み、ちょっとおれの手伝いもあるにはあったが、昨夜のようなことになったのだ。
山根さんはどんな様子をしてるだろう、それがおれの興味の中心だった。
然るに、女中は洗濯をしており、正夫は縁側にねころんで色鉛筆で画仙紙をぬりたくっており、そして当の山根さんは、茶の間の長火鉢の前に、いつもの通りどっしりと控えて、卓袱台の上にマニキュアのセットをひろげて、爪を磨いてるところだった。
山根さんは家事万端のやり方が至って几帳面であると共に、身だしなみも几帳面だったが、顔に剃刀をあてたことがなく、上唇に産毛みたいなうすい髭がはえてるのと、丹念に手の爪を磨くのとだけは、少し不調和だった。艶出液には無色のものを使っているとはいえ、磨いた爪はやはり磨いた爪にしか見えない。肩が頑丈で、腕が太く、手先は細そりしていて、拇指の爪だけがだだびろく、他の爪は小さく恰好がよく、そしてそれらの爪がいつもぴかぴか光っていた。四五日おきには必ずマニキュアの道具が取出された。まず金剛砂板、それから外皮除去液、艶出液、エナメル……十本の指先をすっかり仕上げてしまうには、一時間か一時間半かかるのだ。今も彼女は、平べったい拇指の爪をバッファーで丹念にこすっていた。ふだんと少しの変りもなく、ただ、寝不足らしい曇りが眼にあるきりで、そして頬の肉附のちょっとした険《けん》に、時折、ヒステリックなものがちらと浮んで、その度にバッファーの手先が急になるだけで、それもまたすぐゆるやかにな
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