分が腕を抱えて連れて歩いてた筈の彼女が、影も形も見えなかった。おや、と思ったとたんに、ぞーっと髪の毛が逆立った。そして僕はもう夢中になって駆け出した。
何が仕合せになるか分らないものだ。夢中に駆けたために僕は、危く乗り後れる所だった列車に間に合った。それにしても、あの女のことはいくら考えても今以て分らない。まさか狐につままれた訳でもないだろうし……。
なに、全く狐につままれたような話だって、それはそうには違いないが、僕に残ってる印象はそんな他愛もないものではないんだ。がまあそんなことはいいや、こんどはもっと変梃なのを聞かしてあげよう。一寸煙草を一服吸ってから……。
五
これはつい二三年前のことなんだ。僕は変に生活に退屈を覚えだして、毎日こつこつとつまらない仕事をしてるのが、味気ない生き甲斐のないことのように思えて、何かこうぱっとした明るい異常なものがほしくなっていた。
僕の二階の窓から、青桐の茂み越しに、すぐ隣家の座敷が見下せた。縁側に萎れかけた軒葱《のきしのぶ》の玉を一つ吊して、狭苦しい薄暗い室の中で、四十歳ばかりなのと十四五歳ばかりなのとが、多分母と娘とであろうが、夏の暑い中を毎日せっせと縫物をしていた。夜になると、口髭を生やした男がそれに加わって、誰の子か四五歳の男の子供まで出て来て、みんなで物を食ったり話をしたりしていた。その光景が電燈の光にぱっと輝らし出されるので、猶更ちっぽけな惨めなものに見えた。
所が、そういう隣家の生活を二階の窓から見てる感じが、自分自身の生活にもふと映ってきた。妻や子供と一緒に食膳に向ってる時、机によりかかって仕事をしてる時、縁側に寝転んで新聞を読んでる時、女中達まで皆で集って子供に花火をあげてやってる時、其他いろんな時に、ふとした心の持ちようで、今に屋根の何処かに穴があいて、そこから誰かに覗き込まれるとしたら、自分のこうした生活がどんなにちっぽけな憐れなものに見えるだろう、……と思うと自分がその誰かになって、自分で自分の生活を高い所から覗いてるような気持になり、何んだか惨めで見すぼらしくて嫌になってしまうのだった。
そこで僕は考えたのだ。高い所から人の住居を覗き込むと、どんな立派な生活でも惨めに見えてくる。所が一歩戸外に踏み出すと、街路にうろついてる乞食までが、どこかこう晴れやかなのびやかな影を帯びている。いくら高い所から覗いたって同じことだ。これは一体何故だろう。
そういう風に考えてくると、狭い庭の片隅の桃の木の根本から、すいすいと伸び出てる若芽の生長が、非常に羨しくまた驚異に感ぜられた。若芽の伸びてる方向を辿って仰ぎ見ると、昼間は無窮の蒼空が澄みきってるし、夜には無数の星が閃めいていた。
空澄む、星光る、……そうだ、そういう感じこそ常に胸の底に懐いていたいものだ。所で自分の生活は……。いや外的生活はともかくとして、せめて内的生活だけでも光あるものにしたい。考えて見ると、たとい高い所から覗かれてもびくともしないくらいに、常に晴れ晴れと輝いた心境でいたことが、今迄にいつかあったかしら、今後いつかあるだろうかしら。一体どうしたらいいのだろう。空澄む、星光る、そういった感じにしっかり根を下した世界が、どうしたら開拓出来るものかしら。とそんな風に僕は思いなやんで、毎日毎夜空を仰いでは、はてしない空想に耽ったものだった。
そしてふと思いついたのが、何処か高い山に登ってみようということだった。齷齪とした人事に濁り汚れた頭を、高山の霊気で洗い清めて見たら、或は自然と新たな心境が開けるかも知れない、とそう思って、二三の友人を誘ってみたが、誰も同行しそうにないので、それでは一人でせめて高山の麓へまでなり行こうと決心して、ただ一人でぶらりと出かけた。
僕は先ず北アルプスの或る山の麓まで行ってみた。そして、頂に雪が白く光ってる雄大な連峰を見上げただけで、もう晴れやかな緊張した気分になった。然し勇ましいいでたちをした登山者達の姿を見ると、何の用意もしていなかった僕は気後れがして、案内者と二人っきりで登山するのが、心細くなった。で登山の方は思い切って、そこの宿に二三日滞在して戻ってきた。
その滞在中のことなんだ。じっと山ばかり見てるのにも倦きてきて、僕は毎日その付近を歩き廻った。何しろ人里遠く離れた山奥の、登山客だけを相手のぽつりとした宿屋なものだから、少し歩いてもすぐに深山幽谷の中に出てしまうのだ。
所がある晩、月の光に浮かされて、だいぶ遠くまで溪流伝いに出て行って、帰りは道を少し山手の小道に取ったのが失策で、どこをどう間違ったものか、小高い草原に出てその先が分らなくなってしまった。そればかりならまだいいが、急に霧がかけてきて、方向さえも分らなくなった。
山道に迷った者は
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