いい場所で、横向きに首を差出して眺めると、向うの山から下手の谷間まで、月の光で一目に見渡された。対岸の涯には夜目に仄白い滝が掛っている。
 僕はその景色に暫く見とれていた。すると、僕の横をすたすた通り過ぎた者がある。はっとして振向くと、若い女が一人で見向きもせずに通って行ったのだった。白足袋に草履を結いつけたその足先に、提灯の火がちらちらとさして、それが間もなく向うの曲り角に見えなくなってしまった。後はひっそりした静かな夜で、月が照っており溪流の音が響いてるばかりだった。
 僕は夢でもみたようにぼんやりしていたが、だいぶたってから変にぶるぶるっと身震いがした。恐ろしさとも苛立ちとも分らない気持だった。……後で気付いたことなんだが、温泉から僕は一人の人にも出逢わなかったし、追い越した者も追い越された者もなかったのだ。それから推して考えると、彼女は僕より後に温泉を発って僕を追い越してしまったのか、またはどこか遠くの道からやって来たかに違いない。が、何れにしても変である。
 然しその時僕はそんなことは考えもしなかった。秋の夜の山道で若い女から追い越された、その一寸名状し難い感情で一杯になっていた。何だかやけくそのような気持で立上って、足早に歩き出した。
 五六町も行ったかと思う頃、その女が道端の岩角に腰掛けていた。ぼーっとした提灯の火を側にして、月の光を斜め半身に受けて、顔を外向けているその様子が、もうずっと前から其処に坐り通してるような風だった。僕は何だか息がつけず石のように固くなって、ちらと見やったまま通り過ぎた。彼女は見向もしなかったらしい。
 それから暫く行くうちに、全く意外な気持が僕に湧いて来た。こんどは僕の方が一休みして彼女を待っていてやらなければならない……なぜそうだかは分らないが、兎に角待っていてやるのが当然だ、という気持だった。まあ彼女に強く心が惹かれたのだ。が誤解しちゃいけない。彼女にどうのこうのって、そんな普通の意味でじゃなくって、全く字義通りの意味で心を惹かれたのだ。第一僕は彼女の顔だって一度も見なかったし、その様子で若い女だと感じただけのことじゃないか。
 で、その気持が次第に強くなってきて、やがて僕は月の光のさしてる岩角に腰掛けて待ち受けた。すると、喫驚するくらい早く彼女はやって来た。それから足をゆるめて、膝の上にもたせた片手に下げてる提灯の方を見い見い、僕の顔は見ないで、少し震えを帯びた声で云い出した。
「あの……済みませんが、提灯の火を貸して下さいませんか。躓いたはずみに消してしまいましたので。」
 そんなことだろうと前から思っていた、という気が僕はその時した。当り前のことのようにマッチを取出して火をつけてやった。そのぱっとした光で僕は初めて彼女の顔を見た。普通の……美しくも醜くもない顔立だったが、大きな束髪の下に浮出したその艶のない真白さが、何だか異様に感ぜられた。
 それから僕達は、二人共めいめい提灯を下げて連れ立って歩き出した。
「何処まで行かれるんですか。」
「麓の町まで参ります。」
 それだけで二人共黙り込んでしまって、提灯の火に足許を用心しながら、すたすた歩き続けた。道は真暗な木影にはいったり明るい月の光の中に出たりした。
 そして一里ばかり行った頃、彼女は先刻躓いた足が痛むと云い出した。で僕は彼女の手を引いてやらなければならなかった。しまいには彼女の腕を取って、抱えるようにして歩いた。
「私何だか昔、こんな風にして誰かに連れられて、夜道をしたことがあるような気が致しますの。」
 しみじみした調子で彼女は云った。そう云われると僕も何だか、昔そういう風にして夜道をしたことがあるような気がしてきた。然し腕を抱えられてるのは僕の方で、相手はその女じゃないし、道もそのあたりではなかった。誰だったろう、何処だったろう、そんなことがしきりに考えられた。
 そのうちに、初め温く柔かだった彼女の腕が、だんだん硬ばって冷くなってきた。
「どうかしたんですか。」
 彼女はただ頭を振っただけで何んとも云わない。いろいろ尋ねてみたが、どうしたことか彼女は一言も口を利かないで、頭を打振るばかりである。僕は変に不気味になり出して、それかって彼女を放り出すわけにもゆかないで、とっとっと足を早めると、彼女は足が痛いと云ってるくせに、後れがちにもならないでついてくる。僕もしまいには黙り込んでしまって、木か石をでも引張って歩いてるような気持になった。
 そのうちに、道が次第に平になって、彼方のなだらかな山麓に、停車場やそのまわりの小さな町の燈火が、月光に煙ってぼーっと見え出してきた。もう安心だと思うと、急に気がゆるんだせいか、足が重くて仕方がなくなった。
 ふと気がついて、彼女の方はと思って振向くと、不思議なことには、現在自
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