奴俺を恐がってるんだな、と思ってじっと見ていると、向うでもじっと僕の方を見ている。その顔が何だか見覚のあるようだった。いつ何処で見たのか思い出せないが、ごく淡い而もごく親しい記憶があった。云わば、生れない前から知っていて始終見馴れてはいるが一度もはっきり見たことがないというような、よく知ってはいるがさてどんなかとはっきりは云えないような、余りに身近かな余りに朧ろな記憶だった。
僕はまた四五歩近づいていった。すると向うでも同じように四五歩退ってしまう。僕が立止ると向うも立止るし、寄ってゆけば退いてゆく。僕は少し苛立たしくなって尋ねてみた。
「誰だい、君は。」
すると同じように尋ねかけてくる。
「誰だい、君は。」
そこで僕は自分の名前を云って、散歩に出て道に迷って困ってるのだが、宿へ帰るにはどう行ったらよいかと尋ねてみた。が、それには何とも返辞をしないで悲しそうな顔付で黙って立っている。
僕は何だか変な気持になって、一人で歩きだした。いくら行っても同じような草原なのだ。初めは漸く踏み分けただけの小径があったが、それもいつしか消えてしまって、それから先は、腰ほどの灌木が所々にこんもりと茂ってる荒地だった。それを突きぬけて少し行くと、高い崖の上に出てしまった。木の枝につかまって覗いてみると、遙か下の方に水音がしていて、冷たい霧が吹き上げてくる、底の知れない深さなんだ。山崩れでもした跡らしく、ざらざらの砂が殆んど垂直の斜面をなして、下るには飛び込むの外はなかった。
僕はどうしようかと暫く佇んでいた。ふと気が付いてみると、右手の方十間ばかり先に、先刻の男がまたぼんやりつっ立っていた。僕がその方へ向き返ると、男も僕の方へ向き返った。そして僕達は長い間見合っていた。
その時僕ははっきりと知った。僕が崖から飛び下りれば、その男も飛び下りてしまうに違いないし、僕が其処に屈み込むか後に引返すかすれば、その男も同じようにするに違いない。
「飛び込んでしまおうか。」と僕は云った。
「ああ飛び込もう。」と向うで答えた。
で僕は崖から飛び込んでしまうつもりで、その縁まで手探りに歩み出た。と僕は非常に淋しくなって、彼の方を振向いた。
「飛び込むなら一緒に飛び込もうよ、手をつないで。」
そして僕は二三歩後退りをして、彼の方へ歩き出してゆくと、彼は僕が進むのと同じだけ退ってゆく。それを
前へ
次へ
全20ページ中18ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング