辻の真中に立ち止りました。
「先に行ってて下さいませんか。私はちょっと、その辺で一杯やって、元気をつけてから参ります。」
照子はちらちら光る眼で、じっと木原を見つめました。
「二人一緒に行っては、なんだか変ですよ。すぐにあとから行きます。」
頬の筋肉が震え、眼に涙が出てくるのを、木原は自ら感じて、そのまま向きを変え、四辻を左へ曲ってゆきました。そこの坂の下のあたりに、酒と小料理の店が幾つかあるのを、彼は知っていました。
彼は坂道をおりかけました。背後に照子のことが意識されました。焦茶のオーバーにきっちり身を固め、肉色のストッキング一枚のすらりとした足でつっ立ち、カールした髪の毛の下に眼鏡と眼眸とを光らして、こちらをじっと見ていることでありましょうか。木原は振り向きたい衝動に駆られました。或は、そこの物影に走りこんで、身をひそめて、窺いたくも思いました。照子が後を追って来るかも知れませんでした。然し、彼は歯をくいしばって抵抗しました。
――俺の将来を、俺の陣営を、純粋に保つためだ。四辻をこちらに曲ったことが、俺の今後の道標となるだろう。曲ったのではなく、却って真直に歩いたのだ。あすこを真直に行ったら、俺にとっては曲ったことになったろう。
彼は眼をつぶって歩き、一度は滑ってころび、それから足を早めました。
その坂下の小料理屋で、木原はすっかり酔っ払って、もう三浦行男の家へは行きませんでした。酔いつぶれながら、そして涙ぐみながら、道標とか、照子とか、胸の中で繰り返していました。
底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1−13−24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1947(昭和22)年4月
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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