ってるような素振で、バットを一本とりあげて眺めた。その時私はマッチを自分で取るつもりだったが、机の上になげ出されてる彼女の左手を、そっと握った。
 私も半ばは意外だったが、彼女は全く意外だったらしく、全身でびくりとしたが、次の瞬間、私はその滑かな手を強く握りしめていたし、彼女はそれを私に任せて、窓の外にぼんやり眼を向けていた。やがて彼女は煙草をそのまま投げすてた。私は彼女の手を離した。
「まあ、蝶々がとんでるわ。」
 彼女はびっくりしたように立上って、軒先をかすめて飛んでゆく白い蝶を眺めた。私も立上ってそれをみた。それから天気のことや郊外のことを話した。そして暫くたって彼女が帰っていく時、私たちはこんどは友だち同士のように笑いながら朗らかな握手をした。
 つまらないことだったが、この冒険が、次の事件の機縁だったのである。そして私にこんな冒険をさしたのは、浜田ゆき子とのあんなことがあったからだと思われる。私が手を触れたのは、彼女の手へではなく、彼女の醜い耳へだったようだ。私は自分がいやになっていた。
 ――茲に一寸註を入れたい。村尾はこう話したことがある。「僕と信子との間柄では、手を握りあうことぐらいは何でもないようだった。それで、もし僕が彼女に愛か憎しみを感じたとすれば、彼女を抱きしめるか殴りつけるか、そういう激しい表現にならなければならない筈だった。が僕にはなかなかそれが出来なかった。卑怯だったのだろう。」
 この言を真実だとすると、彼が冒険という言葉を使った意味も分るようだし、その「つまらないこと」のいきさつを長々とこまかく述べているのも、単なる手記上の技巧だけとも思われない。そしてこの次に、可なり長く感想風な文章が続いているが、妙に筆致が浮いてるところを見ると、彼は何か云いたいことが充分に云えない焦躁を感じたらしい。そこをとばして、先へ進んでみよう。

 私は信子に対して一種の芝居をしていたようでもある。一人でいると、彼女を思いきって軽蔑してやりたい気持になったが、彼女の前に出ると、妙にうちしおれて元気がなくなった。そういう私を昂然と見下すのが、彼女には嬉しかったらしい。この頃芸者遊びをするかと尋ねて、彼女は笑った。友人にはどんな人がいるかと尋ねて、親友にはよい人を選ばなければいけないと忠告した。私が会社の不平を云うと、現在の職業をいつでも投出すだけの勇気のある人こそ、ほんとにその職務を立派にやってゆける人だと説いた。そして彼女は世間話のような調子で、父になにか相談されたそうだが、どれほどの金があったらすむのかときいて、私が素直に、二三千円でいいだろうと答えると、それだけなのと軽蔑したように聞き流した。また彼女は私を音楽会や芝居に誘ったが、私はもうそんなところへは行きたくない気持だった。彼女は蓄音機とレコードを持ってきてやると云ったが、それは空言に終った。それからまた、頭の中で考えてる小説の筋などを話して、私の批評を求めたが、私の意見などは実はどうでもよく、ただ話してきかせるという調子だった。然し私から見れば、その小説なんか甘いつまらないものばかりだった。そして私はひそかに、彼女の醜い耳を意識してやるのだった。
 或る時、彼女は風呂敷包みを開いて、大きな封筒を取出し、それを私の前に差出した。中には、百円の勧業債券が十八枚と二十円のが十枚はいっていた。
「いつか、父にお頼みなすったものよ。」
 そして彼女は注意をした。それを担保に金が借りられる筈だが、彼女たちでは少し工合が悪いから、私自身で私の会社から借りるようにして貰いたい。債券の番号をすっかり記入した預り証を取っておかなければいけない。こんどの抽籤の時もし二千円当ったら、それで金を払って債券を戻せばよい。
「お約束して下さらなくちゃ困るわ。あなたの会社で融通して貰って、二千円当るまでは、決して売ったりなんかしないと……。」
 彼女は口許に笑みを含んで、私の方へ手を差出した。
 二千円の籤に当るという甘い空想を快く聞き流すだけの余裕を、私は持っていた。そして紙面の精巧な模様印刷を眺めていたが、とっさに尋ねた。
「お父さんも御存知のことですか。」
 猶予を与えない鋭い調子だったらしい。だが彼女は高慢な平静さを失わないで答えた。
「知らないことになっています。」
 その明確な答えが私の胸を刺して[#「刺して」は底本では「剌して」]、私を非常に惨めな境地につき落した。私は反抗的に、差出されてる彼女の手を執った。
 夜のことで、一つきりない二階の室だった。母の死後、書斎を母の居室だった階下に移して、後を客間としていたのだが、めったに客もなかったし、調度の類も揃っていなかったので、寂しくて落付がなかった。電燈の光だけがいやに明るく目立った。楢の円卓の上で私に手先を任してる彼女は、いたずららしく眼を動かした。
「きっと籤に当るわ。」
 それは、千代次にならふさわしい言葉だった。そして室の佗しさは、ゆき子とのあの安宿に似ていた。この突飛な連想……というよりも寧ろ本能的な印象は、私を道化者になした。私は彼女の手を離さず、真心からのやさしい力を掌にこめ、そのまま身体をずらして、彼女の前腕の上に顔を伏せ、しみじみと涙ぐんだ。長い時間がたった。
「村尾さん……。」
 低い調子だったが、私は次の言葉を待たないで、もう顔を挙げていた。彼女は明かに、私の感動の様子のために感傷的になっていた。頬をかるく赤めて、眼を伏せた。電燈の光をあびてる艶やかな髪の影に、中高な尖った理智的な鼻が白く、その横顔の真中に、欠け縮れた醜い耳があった。私は心でその耳をふみにじりふみにじり、そして涙を浮べながら、のび上って彼女の肩を抱いた。彼女は冷く固くなっていた。私はその石像の唇を求めた。瞬間に、石像は肉塊になった。その肩の堅さと腕の強さとを私は知った。だが、つぶっていた眼を彼女が薄く開きかけた時、私は身を引いて、卓子の上につっ伏して、こんどはほんとの涙を流した。私は彼女の耳に内臓的な関係までありそうに思えるほど醜いその耳に、足の下にふみにじった気でいるその耳に、唇を押しあてたかったのである。それが出来なかった。彼女に対しても、また自分自身に対しても、そこまでの残忍さは出来なかった。感傷的な涙は止らなかった。
「泣いちゃだめよ。もっともっと、悲しいことがあるかも知れないから……。」
 その言葉と、背中に添えられてる手とを、私は煩わしいものに感じた。涙を拭いて身を起すと、彼女の理智的な高慢な鼻が真正面に私の方を向いていた。冷たく澄んだ眼がちらと外らされて宙に据った。頬からは少し血の気が引いて、唇がふるえたが、もう彼女は何も云わなかった。
「許して下さい。」
 私はそう云ってまた涙ぐんだが、おかしなことに、胸の底は冷く、その言葉も彼女に届かないで自分に戻ってくる気持だった。
 ――手記に現われてるこの場面には、少し作為があるようである。それは実際の情景の記述と見るよりも寧ろ、村尾自身の心理解剖と見るべきであろう。心理解剖というやつは、何かを見落すのが常であって、見落すことによって整理する。
 手記のずっと先の方に、次のような一節がある。
 私は実際、男女関係に於ても、何ものにも囚われない自由な朗かな心境にあることを、自ら喜んでいた。然しこの考えは或は間違っていたかも知れない。私がもし恋をしているか、恋でなくとも何等か一つの愛情を持っていたならば、ゆき子にも信子にも、また他の誰にも、ああいう態度は取らなかったろう。そしてこんな惨めなところに落込むことはなかったろう。極端に云えば、独身でいたのがいけなかったのかも知れない。然しながらまた、自由に遊蕩出来るだけの金を持っていたら、問題はおのずから異る。要するに、貧乏でそして愛人がなかったのがいけないのだ。とはいえ、今は寧ろそのことを感謝したい気持である。
 ――この一節を考え合せると、前の場面から何かが見落されてるように思われるのである。村尾はまたこういうことも云った。「僕が彼女の醜い耳に誘惑されたことのうちには、実は自分の理性に対する反抗もあったかも知れない。」

 結局は自分自身を惨めになすに過ぎなかった信子との事柄は、二千円の勧業債券に対して私を無頓着ならしめた。私はそれについて、大して感謝もしなかったし、また大して躊躇もしなかった。それに元来私は、金銭のことは水量みたいなもので、水準の高い方から水準の低い方へ水が流れこむのは当然のことで、こちらの水準が高くなればこんどは他へ流してやると、そういう呑気な考え方をしがちだった。その上、緒方久平氏が知っていながら、勧業債券なんかを持って来たのは、抽籤という他愛ない僥倖を考えての母と娘の策略だと、大目に見過すことも出来たし、また、会社から借りる方が支払いに便宜だとも考えた。
 翌日、早速、母が大事にしていたものですけれど……と云って、社長に頼んでみた。社長は一寸額に皺をよせて考えたようだったが、別に穿鑿もせずに、その担保貸出を取計らってくれた。而も社員だというので特別に、抽籤期はまだ遠いにも拘らず、額面高の貸出をしてくれた。私は二千円の紙幣をポケットにつっこんで、その晩直ちに、急を要するところへ二ヶ所だけ廻って、支払いをすました。そして半分ほど残ったのを、不足ながらも、他の方面へどういう風に割りあてようかと考えた。そういうことが、私の性質からすれば、またこれまでの例としても、朗かに楽しく為される筈であったが、どうしたものか、こんどは却って私を憂欝にした。殆んど諦めていたところへ、思いがけなく道が開けたようなものではあったが、私の心は少しも開けずに益々欝屈してきた。
 ――茲に一言挟むが、手記にはただ右のようなことしか書いてない。然し村尾はくり返し云った。「僕はその金を、拾い物を収得して利用するような気持で使った。そうすることが、信子に対する自分の道化た態度を益々徹底させることになり、自分を益々泥の中につきこむことになるからだった。そして僕は自分の……云わば、無良心の底が知りたかったのだ。」この言葉は彼の憂欝の原因を説明してくれるようである。
 そして憂欝な気持で、翌日を過し、夕方家に戻ってくると、信子から手紙が来ていた。私はそれを、あれからすぐ名古屋に帰るといっていた浜田ゆき子からでも来たような気持で、披いてみたのだが……。
[#ここから2字下げ]
私は悲しい心でこの手紙を書かなければなりません。一日一夜、考え通してみましたけれど、やはり一切のことを申上げた方がよいと思いまして、進まぬペンを執りました。御許し下さい。私はただあなたにお力をつけてあげたい――お笑い下さいませ――あなたがどんなことをなさるか分らないと心配して、母といろいろ相談した上で、あんなことを致したのでした。そして思いがけなく、あなたの愛に接して……。あなたが私を愛していて下さることは分っていましたけれど、でも、それはちがった種類の愛だと思っておりましたの。それが、ああいうことになって……。私は今泣いています。泣きながら告白します。私には、愛する人がございます。そのためにも、私はあなたの愛を御受けすることが出来ませんの。御許し下さい。でも、あなたは屹度、この悲しみに堪えて下さいますわね。どんな悲しみにも堪えて下さいますわね。私はあなたの男としての力を信じます。私を愛して下さいますならば、この私の確信を裏切らないで下さいませ。私はたとえ泣きましても、あなたは泣かないで下さいますわね。(中略。ここに彼女は、人生はくいちがった歯車のようなものだとか、悲しみをふみくだいてゆくのが生きる途だとか、自分は過去にそうした途を辿ったが、今はただ一条の光を見つめて生きているとか、そんなことを書いていた。)あなたは今、いろいろな意味で、試練の時期にさしかかっていらっしゃると思いますの。そして力強い輝かしい未来のため、只今の試練に御堪えにならなければなりません。そうしたあなたを私は信じておりますの。私はあなたの愛を御受けすることが出来ないながらも、あなたのよきお友だちに
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