道化役
豊島与志雄
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)老《ふ》けて
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)小説3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
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村尾庄司が突然行方をくらましてから、一年ほどたって、島村陽一は意外なところで彼に出会った。島村は大川を上下する小さな客船が好きで、むかし一銭蒸汽と云われていた頃には、わざわざ散歩の途をその船の中まで延したこともあるし、近頃でも、たまに何かの機会があると、少し廻り道をしても乗ってみた。街路が舗装で固められ、建物が直角の肩を並べ、交通機関が速力を増してくる、その中にあって、商家のお上さんや番頭などをのせ、川波にゆられながらのろのろと走る小蒸汽は、都市の煉瓦や石やコンクリートの中に穿たれてる一種の通風孔みたいに思われるのだ。殊に夕方がよかった。太陽は建築物の肩に隠れて、その残照が明るく河面に漂い、油をぬったような空と水との反映を受けて、微妙な紫じみた雰囲気をかもし出し、両岸の家々は平面がぼやけ、輪廓だけがくっきりと際立ち、泊りを求めて帰る大きな荷足船の中からは、細そり煙が立っている。そういう時、船体全部に響くこの小蒸汽の機関の音は、何かしら小気味よい笑いのように聞えた。永代橋のたもとからこれに乗りこんだ島村は、久しぶりの楽しい気持で、暫く外に立って眺めていたが、二つばかりの橋の下をくぐると、いかめしい鉄骨の橋架に頭を押えられる気がして、船室の中にはいった。客がまばらで、ひっそりしていた。片隅の腰掛にかけて、うす汚れのした硝子窓から覗くと、船はすぐ河岸近くを進んでいたので、広い眺望を求めて反対側に席を移そうとした時、向うの、子供を膝に抱いてる女の先に、こちらを見ていたらしい顔をそむけて、水面に視線を落してる男の姿が、眼にとまった。黒いソフトをまぶかにかぶって、窓によりかかるようにしてるその横顔が、どう見ても村尾だった。島村は物にこだわらない呑気な性質から、一年間の年月も種々な事件もとびこして、その方へ歩み寄っていった。数歩のところで、村尾は彼を意識していたようにひょいと顔をあげて、彼の方を見た。彼はそれを笑顔で迎えた。
「やあ、暫くだね。」
村尾は黙っていて、真向いに腰を下す島村の様子を、じっと見ていた。反感はないが、冷い眼付だった。古ぼけた紺の背広から、白い襯衣の襟をのぞかせて、毛襦子らしいネクタイを無雑作にむすんでるその様子が、以前よりも更に痩せている蒼白い顔にしっくり合って、若くなったようにも見える。そして黒のソフト帽だけだが、昔の通りだった。
「どうしたんだい、あれから……。」
その時、村尾は曖昧な微笑を浮べて、島村の手をとって握りしめた。力のこもったその握手が、以前の村尾と異ったものを島村に伝えた。
「あなたに……逢いたいと思っていたんですが。」
そして村尾はこんどは、何だか恥しそうな微笑をした。感情や言葉がどこか調子があっていないようだった……。
――ところで、これから先の二人の話を跡づける前に、以前の出来事を茲に物語るとしよう。そしてこの物語は可なり曖昧で複雑だから、村尾自身が島村に書き送った手記を骨子とし、筆者の註釈や補足を附して、出来る限り誤りなからんことを期したい。
……私はどうしても信子を愛することが出来なかった。なぜだか、いくら自分に尋ねても分らない。顔立も、教養も、私にとっては過ぎているくらいで、もし彼女と結婚するとしたら、幸福な家庭が営まれる筈だった。殊には、彼女の父と私の母とは従兄妹に当っていたし、家庭のこともよく分っていたので、私はどの女によりも彼女に最も信頼出来る筈だったし、彼女の家は富有で、私自身いろいろ世話になったこともあるので、結婚によって物質的な援助も得られるわけだった。それでも、私は彼女に対して何等の愛情も持つことが出来なかった。その原因としては、私にはつまり分ってることは、ただ一つあるきりだった。それは彼女の耳だ。
彼女の耳朶は、上部は普通だが、後部のなかほどが、欠けたように凹み縮れて、下部が醜く反り返っていた。ただそれだけであるが、それが私の眼には、彼女の体躯の不具的欠陥とも云えるほどに拡大されて映った。而もなおいけないことには、その不具的欠陥は何か内部的な例えば内臓にでも関係ありそうに思えるのだった。一体人間の肉体的欠陥には、単にそれだけとして止って、それが他の部分の健全な美を一層引立てるような、愛すべきものもある。然しそれが他の内臓的関係までありそうに思わせるものは、ひどく醜悪になる。私は信子の耳にそうした醜悪さを感じた。と云っても彼女は、健康な若々しい娘だった。ああ、彼女はどうしてあの致命的な醜悪な耳を持って生れたのだろう。私の運命の狂いは、大半は彼女のその耳から由来したと云ってもいい。
彼女に逢っていると、私はその耳から反撥させられた。彼女は意識的にかどうか分らないが、その耳をなるべく隠すような、少し老けた洋髪に結っていたが、秘密を知ってる私の意地悪い眼は、そんなことにごまかされはしなかった。見まいと思っても、髪の毛をかきわけてまで見つけ出すのだった。腸に穴があいて四ヶ月も病院にはいっていた時、彼女は時々見舞に来てくれたが、私はベットに寝たまま無言のうちに、じっと彼女の耳に眼をつけていて、彼女が振り向くと、はっと顔を赤らめたこともある。そんな時、私は口を利くのが嫌になって、早く帰ってくれればいいと念じることさえあった。母の葬式の時、祭壇の前に立並んでる親戚一同のうちで、彼女の耳だけがしきりに私の意識にからまってきた。前日通夜の折に、お母さんもせめて庄司さんの結婚式までは生きていたかったんでしょうねえと、信子の母が他の人に話してた言葉を、私はふと聞きかじり、私の母が私の妻へと望んでいたのが信子であることを知っていたので、私はそのとっさに、信子の耳を思い浮べて、嫌な気がしたものだった。
私がばかばかしく千代次に惚れこんでいって、乱脈な生活に陥ってしまったのも、一半の責任は信子の耳にあるように思われる。千代次は薄い素直な耳朶を持っていた。薄倖そうな可憐な耳朶が島田の鬢からのぞいてるのを、私は彼女の頼り無い存在の象徴のように思った。彼女が私の名を叫びながら二階から落ちて死んだ、その声の彼方に、私はいつも彼女の薄い素直な耳朶を思い出すのである。
――茲で一寸註釈をつければ、ここのところはどうも手記の誇張らしい。信子の耳のことから、その耳を中心に筆が滑っていったもののようである。
千代次というのは、村尾が馴染んでいた芸妓で、初めはロマンチックな気持から深入りしたものらしいが、彼が勤めていた商事会社の社長と関係があるとかないとかで、一時切れがちになって、其後、彼の母の死後、どうしたわけか、どちらからも急に深くなっていった。千代次の方はそれでも、商売気をはなれたところへまで陥りはしなかったが、村尾は自暴自棄かと見えるほどに打ちこんでいって、めちゃくちゃに借金を拵えた。そして面白いことには、彼は千代次の前で表面は、いつ別れてもいいし、またいつ一緒に死んでもいいというふうな、さりげない態度を装いながら、影では、彼女に夢中になって、夜遅くその辺を彷徨して彼女の動静を探ったりした。彼女は誰かにつけ狙われてるような不気味な恐怖を覚え初めたが、或る夜、村尾と気まずい別れ方をして、ほかのお座敷で酔っ払って帰ってくると、自分をつけ狙ってるのが実は村尾であることを見て取り、なお二階から覗いてその姿を物色しているうち、村尾の本当の心情がひしと身にこたえ、のりだして彼の名を呼んでるうちに、酔ってるせいもあって、二階の窓枠が折れて、下へ落ちて死んだ。だがこの話は、本物語と大した関係はないから省略するとして、ただ、村尾はこのことのために悲壮な決心をしたことは事実で、また彼の生活が甚しい窮迫に当面していたことも事実である。
それからなお、注意に価すると思われる一事をつけ加えておくが、村尾は千代次とのことに関連して、さあらぬ体で、一般に芸者たちの情交について面白いことを云ったことがある。――「そのことについては、僕の頭には、いつも不思議な連想が浮ぶ。金貸の室を思い出すのだ。金貸の室ほどさっぱりしてるものはない。座布団が一二枚、机が一つ、時とすると片隅に卓子が一つ、掛軸と額、どちらも大抵名士の書だ。そして鹿の角だとか水牛の角だとか、そんなものが一つ、ぽつりと柱にかかっている。それだけで、他に何にもない。花は固より、花瓶さえない。余分な調度は一つもない。机の上に硯箱があり、机か卓子かの抽出に印刷した紙がはいっている。極端に簡素な室だ。そしてこの簡素さは、ただ事務という一事に集中される。こういう金貸の室に、芸者たちの情交は類似しているんだ。それはただ簡素な事務に過ぎない。金貸の室に、どこに人間味が見出されるか。芸者たちの情交に、どこに真心が見出されるか。僕はそれを長い間疑ってきた……。」
右の言のうち、芸者たちという複数の言葉を単数に置換えると、村尾と千代次のことになるらしい。そして村尾は、恐らく金貸の室に人間味は見出さなかったろうが、千代次のうちに真心を見出した、或は見出したと思った。而もそれは千代次の死――過失の死には違いなかったが、その死によって見出したのである。彼の悲壮な決心がどういうものであったかは、大凡想像がつく。
なお続けて彼の手記を辿ってみよう。
私の生活は偶然事に左右されることが多かった。これは偶然を必然にまで統御するほどの旺盛な生活力が欠けていたからかも知れないが、それよりも私は、偶然の作用について宿命的な感じをさえ懐いていた。偶然が作用する場合、それは機会という言葉に飜訳される。浜田ゆき子に出逢った時、機会がいけなかったのだ。
会社の退出まぎわの時間だったが、給仕が私に、浜田さんという女の面会人を取次いできた。その名前は私の記憶になかったが、とにかく応接室に通さしておいて、出て行ってみると、はっきり覚えがあった。いつのまにか忘れて、而も一目ではっきり凡てが思い出せるという、そういう女に対しては、一寸甘い感情が伴うことも許されるだろう。
「あたしだってこと、お分りになりましたの。」
彼女は一寸お辞儀をしてから、微笑みながら私を眺めてそういった。少し小首を傾げ、乱視めいた眼付で、口をとがらした、その笑顔は、昔の通りだった。だがずっと老《ふ》けて、肥《ふと》っていた。
「まるで分らなかった。浜田さんなんていうもんだから……。」
「お訪ねして、いけなかったかしら。」
「いいえ、ちっとも……。」
私の心は不思議なほど落付いていた。彼女も落付き払ってるようだった。金紗の着物も縫紋の羽織も、もう何度か水をくぐったらしい萎びかたをしていたが、その粗末なみなりがしっくり身体につくほど、彼女は肥って世帯じみていた。あれから名古屋に帰って、暫く小さな店を出してみたが、思わしくないので、今では姉の家に厄介になってるとか、ちょっと用があって東京に出て来たので、どうなすってるかと思って、お訪ねしてみたのだとか、そんなことを彼女は微笑みながら云うのだった。その微笑みから、またその様子から、七八年前の彼女が淡く浮んできた。神田の裏通りの小さなバーにいて、その頃半年ばかりの間、月に二三回、私は彼女を外に連れ出したことがあった。公然とそういうことが出来るバーだったし、彼女も公然と振舞っていたし、他に幾人も男の客があることも分っていたし、凡てが明るい取引だったので、私は却って気が安らかだった。彼女が名古屋に帰りたがってるのを知って、百円ばかりの金を助けてやった私には、何等の私心もなかった。あの時お世話になったきりで……などと彼女は云って、煙草の煙の間から微笑みかけたり、まだ独身《おひとり》ですかなどと、まじめくさった聞き方をしたりした。そうして対座していると、次第に、彼女のとがった口付に愛嬌が出て来、
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