に思えるほど醜いその耳に、足の下にふみにじった気でいるその耳に、唇を押しあてたかったのである。それが出来なかった。彼女に対しても、また自分自身に対しても、そこまでの残忍さは出来なかった。感傷的な涙は止らなかった。
「泣いちゃだめよ。もっともっと、悲しいことがあるかも知れないから……。」
 その言葉と、背中に添えられてる手とを、私は煩わしいものに感じた。涙を拭いて身を起すと、彼女の理智的な高慢な鼻が真正面に私の方を向いていた。冷たく澄んだ眼がちらと外らされて宙に据った。頬からは少し血の気が引いて、唇がふるえたが、もう彼女は何も云わなかった。
「許して下さい。」
 私はそう云ってまた涙ぐんだが、おかしなことに、胸の底は冷く、その言葉も彼女に届かないで自分に戻ってくる気持だった。
 ――手記に現われてるこの場面には、少し作為があるようである。それは実際の情景の記述と見るよりも寧ろ、村尾自身の心理解剖と見るべきであろう。心理解剖というやつは、何かを見落すのが常であって、見落すことによって整理する。
 手記のずっと先の方に、次のような一節がある。
 私は実際、男女関係に於ても、何ものにも囚われな
前へ 次へ
全44ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング